8月18日、戦争は終わっていなかった!北方領土「占守島の戦い」

こんにちは、きんいろ旅程です。
みなさんは「占守(しゅむしゅ)島の戦い」をご存じですか?

占守島の戦いは、太平洋戦争の終結後の8月18日に始まった日本とソ連の激しい戦闘です。

この戦闘は、日本の歴史においてあまり知られていないかもしれません。しかし、この戦いは、現在も両国間で根強く残る北方領土問題に深く関係しています。また、この戦いが行われなければ、北海道はソ連によって占領・統治されていたかもしれません。そのような意味で日本の歴史を変えたかもしれない大事な一戦といえるでしょう。

もしも8月15日に日本が降伏せず戦争を続けていたとしたら、歴史はどのような展開になったのでしょうか?様々な視点から考察します。

今回はそんな占守島の戦いについてご紹介していきます。

占守島の戦いとは

占守島の戦いは、1945年8月18日から8月23日まで、千島列島の最北端に位置する占守島で行われた日本軍とソ連軍との間の戦闘です。

この戦闘は、太平洋戦争の終結後に起こりました。日本が8月15日にポツダム宣言を受諾して降伏したにも関わらず、ソ連が対日参戦を続けたために発生したのです。ソ連は8月9日に日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州や樺太、千島列島などに侵攻しました。

占守島は千島列島の最北端に位置し、日本陸軍第5方面軍によって要塞化が進められていました。占守島には約8,500人の日本兵が駐留しており、約2,000人の民間人も住んでいました。

戦闘の経過

占守島の戦闘は以下のような経過で行われました。

8月18日未明、ソ連軍が約16,000人の兵力と約100両の戦車をもって占守島に上陸します。上陸地点は南部のトマリ湾と北部のキタバヤシ湾でした。

第5方面軍の司令官樋口中将は札幌にいましたが、すぐにソ連軍が攻めてきたと気づき、これを迎え撃つよう直ちに命令を出します。すでに日本軍は武装解除の途中でしたが、これを中止し、ソ連軍を水際で迎撃することになりました。結果論ですが、この樋口中将の迅速な判断がなければ、占守島はもちろん、北海道までソ連軍に占領されていたかもしれません。その点で、彼の命令は日本の戦後史を変えた可能性があります。

上陸してきたソ連軍を迎え撃ったのはおもに戦車第11連隊の精鋭戦車部隊でした。隊長は「戦車隊の神様」と呼ばれた池田大佐という人物です。この部隊は通称「士魂部隊」と呼ばれていましたが、現在の自衛隊もまた、この名前を引きついでいるそうですね。

すでに停戦命令を受け武装解除を進めていた日本軍。兵士たちはやっと故郷へ帰れると楽しみにしていたようです。しかし池田大佐が「赤穂浪士となって将来仇を討つか。白虎隊となって玉砕し、民族の防波堤となるか」と兵たちに問うたところ、全員が出撃を志願したというエピソードも伝わっています。

8月18日午前、上陸したソ連軍部隊は、日本軍の激しい抵抗を受けながらも、午前4時頃には四嶺山に接近。この地点をめぐってソ連軍と日本軍の間で激戦となりました。

戦車第11連隊は、18日午前6時50分頃から連隊長車が先頭に立ち四嶺山のソ連軍に突撃してこれを撃退。しかし、日本側も損害が大きく、連隊長の池田大佐も戦死しています。

その後、日本軍は国端崎に向け前進し、ソ連軍が占領していた要所の奪還に成功しました。ソ連軍は反撃したものの、日本側はこれを撃退。優勢なまま戦闘を進めます。

しかし、8月23日、日本軍上層部は占守島守備隊に停戦命令を発令。最終的に守備隊はソ連軍を包囲するという優勢な戦局であったにもかかわらず、停戦・降伏と武装解除を余儀なくされました。

こうして占守島の戦いは優勢だった日本軍がソ連に降伏することで終わったのです。

日本軍が優勢に戦いを進められた要因

日本軍の主力戦車 チハ

占守島の戦いで日本が優勢だった要因は、主に以下の3つだと考えられます。

・日本軍の守備隊は、アメリカ軍が攻めてくることを想定して、占守島における要塞化や防衛体制の構築に努めていた。また、精鋭の戦車第11連隊を配置していた。この時の日本軍の主力戦車(チハ 97式中戦車)は決して強力なものではなかったが、ソ連軍の歩兵部隊に対しては有利に戦闘を展開できた。

・ソ連軍の上陸作戦は、濃霧や波浪の影響で混乱し、計画通りに進まなかった。上陸部隊は分散してしまい、日本軍の反撃に対応できなかった。また、ソ連軍は占守島の地形や気象に不慣れであり、日本軍の攻撃に対して適切な防御策をとることができなかった。

・ソ連軍の指揮官は、日本軍の抵抗を過小評価しており、上陸部隊の増援や支援を行わなかった。また、ソ連軍は占守島における戦闘を重視せず、幌筵島や南樺太への進撃を優先した。その結果、上陸部隊は孤立無援となり、日本軍に包囲されてしまった。

このように日本側の事前の準備が功を奏したことと、ソ連軍の不手際がおもに戦局を左右したといえるのではないでしょうか?

占守島の戦闘の影響

占守島の戦闘は、千島列島で唯一のソ連との交戦であり、終戦後も続いた日本とソ連との対立の発端の一つとなりました。

降伏した兵士たちはソ連軍の捕虜となり、その多くがシベリアへ抑留されました。その中には、後に第一次安倍内閣で外務大臣を務めた麻生太郎氏の父親も含まれていたそうです。彼らは寒さや飢えに苦しみながら重労働を課せられ、多くの人が日本へ帰ることなく亡くなっています。

また、この戦闘で占守島を失ったことで、日本は千島列島の領有権を事実上放棄することになりました。現在も千島列島はロシアによって実効支配されており、日本とロシアとの間に平和条約は結ばれていません。

しかし、冒頭でも言ったように占守島の戦いが起こらなければ、ソ連軍は択捉島などを経由して速やかに北海道の占領へ向かっていたはずです。守備隊が命を懸けて戦った5日間は、北海道と現在の日本を守り抜いた5日間といえるのではないでしょうか?

日本人は、占守島の戦いを重く受け止めなければならないと私は考えます。

おわりに

ここまで占守島の戦いについてお話してきましたが、いかがでしたか?

この戦いはあまり知られていないかもしれませんが、その背景や経過、影響などを知ることで、現在も続く北方領土問題について深く理解することができるのではないでしょうか。

占守島の戦闘は、日本人にとって忘れてはならない歴史的な出来事だと私は思いました。みなさんはどのような感想を持たれましたか?

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最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
では次回もお楽しみに!

☆参考サイト
占守島の戦いーWikipedia
終戦後の開戦 -占守島の戦いと指揮官-東北工業大学
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男ー読売新聞オンライン
1945年、占守島…日本を分断から救った男たちーWEB歴史街道
終戦直後にソ連による日本の南北分断計画を防止した【占守島の戦い】

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きんいろ旅程

きんいろ旅程(りょてい)と申します。おもに歴史や競馬などをテーマに、幅広く記事を執筆中。「どんな人にも読みやすい記事を書く」ことをモットーに、日々WebライティングやSEO、Wordpressなどを勉強中です。名前の由来は競走馬「ステイゴールド」から。Twitter→@kinniro_ryotei アイコン:畦ノつぶて様 @azeno_tsubute22

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