※この記事にはやや刺激の強い内容が含まれています。閲覧の際はご注意ください
こんにちは、きんいろ旅程です。
みなさんは、会津の白虎隊についてご存じかと思います。戊辰戦争の中で新政府軍と会津軍が刃を交えた会津若松城での戦いにおいて、少年兵たちが飯盛山で自ら命を絶った悲劇的な出来事ですね。
しかし同じ戊辰戦争において、二本松藩でも「二本松少年隊」と呼ばれる12歳から17歳の少年兵たちが戦場に出撃し、悲劇的な結末を迎えたことはあまり知られていません。
今回は、そんな二本松少年隊について、なぜ彼らが出撃しなければならなかったのか、彼らはどんな戦いを経験したのか見ていこうと思います。どうぞお付き合いお願いします。
二本松少年隊とは
二本松少年隊は、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊で、総勢63名いたといわれています。彼らはふるさとを守ろうという強い志と勇気を持って二本松のために戦いましたが、二本松城が新政府軍に落とされたときに多くの少年たちが戦死したり、負傷したりしました。
彼らの中でも、二本松藩の砲術師範であった木村銃太郎という青年が率いて、大壇口という要所を守った25名が最もよく知られています。彼らは大砲や洋式ミニエー銃を使って新政府軍と激戦を繰り広げましたが、装備や兵力に勝る新政府軍には敵いませんでした。木村銃太郎も負傷して自刃し、その首は少年たちが持って退却しました。
二本松少年隊は、白虎隊とは異なり正式な編成や隊名はなく、戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」から二本松少年隊と呼ばれるようになったと言われています。
彼らの墓所や顕彰碑は二本松市内にあります。また、二本松少年隊を歌った楽曲や琵琶歌もいくつか作られています。
彼らはふるさとを守ろうという強い志と勇気を持って戦いましたが、多くが戦死しました。彼らの悲劇は、戦争の悲惨さや人間の尊厳を考えるきっかけになるかもしれません。
二本松の戦いにいたるまでの戦況
二本松少年隊が生まれた一つの要因として、二本松藩にとって厳しい戦局が挙げられます。
二本松藩は福島県南部にある岩代国安達郡の地を領する10万石の藩で、藩主の丹羽氏は織田信長の重臣・丹羽長秀の子孫でした。また、白河城の城郭を預かっていたこともあり、白河口の戦略的な要衝に位置していました。
二本松藩は漢学が盛んで、忠君愛国の教育が徹底されていたようです。しかし、そのために軍制や兵装の洋化に遅れをとりました。戊辰戦争時の藩の兵力は1,000から2,000足らずだったといわれています。
慶応4年(1868年)閏4月19日、新政府軍参謀の世良修蔵が仙台藩らによって暗殺されると、翌20日に旧幕府側の会津藩や新選組らは白河城を占拠しました。これを受けて、東北の25藩は奥羽越列藩同盟を結成。二本松藩も同盟に参加しました。
5月1日に新政府軍が白河城を奪還。会津藩は奪還を試みましたが失敗します。二本松藩も会津藩の援護に向かいましたが、白河周辺で足止めされました。こうして主力部隊は白河に出払ってしまい、あとに残るのはわずかな兵だけになっていたのです。
一方の新政府軍は東の棚倉城を攻略した後、北上して三春城へ向かいました。途中で浅川の戦いが起こりましたが、新政府軍は旧幕府側を撃退しました。この敗戦で旧幕府側は白河城や棚倉城の奪還を断念して郡山へ撤退。
これを見た三春藩は新政府軍へと寝返り、彼らを先導しました。この三春藩の突然の寝返りは、二本松の人々に衝撃を与えたようで、戦後も遺恨が根強く残ったと伝わっています。
その後、新政府軍は交通の要衝だった本宮城を占領。これによって二本松藩の主力部隊は領地に戻ることができなくなってしまいました。二本松藩はこうした厳しい局面を打開するために、少年や老人を出撃させざるを得ない状況に追い込まれていったのです。
「入れ年」制度
二本松の少年たちが戦場に出たもう一つの要因は、二本松藩独自の制度である、入れ年という制度が深く関係しています。
「入れ年」とは、数え年18歳になった時点で藩に成人した旨の届け出をすると、藩は番入り(兵籍に入ること)を命じる習慣のことです。つまり、2歳のさばを読むことを黙認することで、成人年齢を20歳から18歳に繰り上げることができたのです 。
二本松藩は前述した理由により、兵力不足に悩んでいました。そこで、7月上旬に藩は17歳までの出陣を許可しましたが、入れ年をあてはめると15歳までの少年が対象となりました。
少年たちはふるさとを守ろうという強い志を持って出陣嘆願し、最終的には15歳までが出撃を許可されました。入れ年にすると13歳までが対象となったことになります。
こうした二本松藩の制度や火事場的な判断が、少年たちが戦場に出ることにつながりました。そしてそのことが少年たちの悲劇へと続いていってしまったのです。
二本松少年隊の戦い
新政府軍は1700人の兵力で二本松城へ攻め込みました。迎え撃つ二本松藩の兵力はわずかで、小銃をはじめ装備の面でも新政府軍に劣っていました。
二本松の戦いでもっとも激戦となったのは大壇口という要所です。大壇口は二本松城南方の奥州街道沿いにある高台で、新政府軍の進路を阻むことができる地点でした。木村銃太郎は門下生の少年たち25人を率いて大壇口へ出陣。これがもっとも知られている二本松少年隊です。
彼らは大砲やミニエー銃を使って敵と渡り合いましたが、木村銃太郎をはじめ多くの少年たちが戦死しました。他にも多くの少年たちが勇敢に戦いましたが、最終的には14人が戦死しました。木村は腰に銃弾が当たり、もう助からないからと、部下に自らの首をはねさせています。退却の際、首は少年たちがかわるがわる運びましたが、中には泣き出す少年もいたそうです。
二本松少年隊の中でも特に有名なのは、青山助之丞正誼と山岡栄治恵行という二人の少年です。二人は他の少年達の退却を助けるため大壇口に残りました。茶屋に潜み、敵が差し掛かると飛び出しました。二人で9人もの敵を斬り倒したものの、最後は敵の銃弾によって命を落としたといわれています。
また、岡山篤次郎は母に頼んで戦場での着物などに自分の名前と年齢を書いてもらい出陣しました。「母が自分の屍を探すときにわかりやすいように」との理由からです。戦のあと意識不明のところを土佐兵によって発見され、同日の夕刻に死亡しました。土佐藩兵たちは最後まで戦うことをあきらめなかった岡山の最期に心を打たれ、弔歌を詠んだといわれています。
久保豊三郎と久保鉄次郎は兄弟でした。兄・鉄次郎は病弱でしたが、弟・豊三郎が出陣したことを知って母親の制止を振り切り、後を追いました。二人とも負傷して称念寺に運ばれましたが、お互いのことを知らないまま両者とも亡くなりました。
成田才次郎は、父から「敵を見たら、斬るのではなく突け」と、諭され出陣。大壇口から退却した後、二本松城箕輪門付近で敵の長州隊隊長を突いて倒しましたが、すでに重傷を負っていた彼もまもなくその場で息絶えました。隊長は才次郎を惜しんで殺さないよう命令したともいわれています。父の助言に忠実な最期でした。
他にも少年たちのエピソードは数多く伝えられています。私たちはこうした少年兵たちの物語を忘れてはいけないと感じました。
二本松城は少年たちの奮闘むなしく正午前に陥落。城は家臣たちの手で燃やされました。城内では多くの藩士や家族が自刃。戦死者は家老以下420人以上にのぼりました。
新政府軍は二本松城を後にし、西の会津若松へと向かいました。そしてそこでも白虎隊の悲劇が生まれることになります。
おわりに
ここまで、二本松少年隊がなぜ出撃したのか?その要因を分析しました。また彼らの戦いぶりもお話ししました。いかがでしたか?
二本松少年隊は、ふるさとを守ろうとした少年たちの健気な思いを伝える歴史的な存在です。彼らは二本松藩の「入れ年」制度によって出陣しましたが、戊辰戦争の激戦で多くが命を落としました。
彼らの悲劇は、戦争の悲惨さや人間の尊厳を考えるきっかけになるかもしれませんね。二本松少年隊についてもっと知りたい方は、以下の資料を参考にしてみてください。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。次回もお楽しみに!
☆参考資料
物語 二本松少年隊(著:青木更吉 新人物往来社 1991年)
二本松少年隊ー二本松城跡
二本松少年隊ー二本松市観光連盟
二本松少年隊~戊辰戦争に散った少年たちー歴史街道WEB
戊辰戦争 二本松の戦いー二本松市役所