日本と世界を蠢かした東北人(第四編)

~ 彼が「阿片」の煙の先に見たのは

「希望」か、それとも「地獄」か ~

「満州の『阿片王』」と呼ばれた男

秋田県 里見甫(さとみ はじめ)

ライナス

当時の南京周辺のアヘン窟。ご覧のように多くの人々が

狭い部屋のベッドに横たわりつつ、パイプによって阿片を

吸引している。一度阿片の魅惑に堕ちた者はあらゆることよりも

阿片の吸引を最優先し、そのせいで体を壊し、ついにはその命を

喪う者も多かったが、それでも阿片の常習者は後を絶つことがなかった。

これを国策事業にしようとした関東軍及び特務機関、そして里見もまた

別の意味で、阿片の魅惑に取り入られてしまったのだと

筆者は痛感せざるを得ない。

[注1] もっとも、当時の満州国自体がトップに愛新覚羅溥儀を据えた傀儡政権でした。この政策は

帝国海軍の南方侵攻作戦でも引き継がれることとなり、そのことによって現地住民との軋轢が生じ、

占領統治策に重大な影響を及ぼすことになるケースも頻発し、結果として石油資源や鉱物資源などの獲得や本国への輸送に深刻なダメージを与えることとなるのでした。

[注2] ジェスフィールド76号の実態については彼らの直属の元上司であった晴気慶胤氏が戦後に自ら著書にしておりますのでそちらをご覧ください。上海テロ工作76号 (1980年)

[注3] 内蒙古族に関しては当時大隈重信内閣だった頃に特務機関が張作霖及び中華民国臨時大総統だった袁世凱の打倒と満蒙独立のため、蒙古馬賊の頭目だったバボージャブに働きかけた経緯もあり(蛇足になりますが、この後にこのバボージャブの次男のカンジュルジャブと結婚するのが、後に「男装の麗人」、「東洋のマタ・ハリ」と称されて名を馳せることになる川島芳子です。)、この当時も内蒙古族の存在が清国、蒋介石、毛沢東率いるコミンテルン政権への対抗馬としてだけでなく、日本の反共工作や対防共政策の拠点として重用されていたという経緯があります。

「男装の麗人」、「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・

ダルク」の異名で当時の日満両国でその一世を風靡した川島芳子。

第10代粛親王愛新覚羅善耆(あいしんがくらぜんき)の第14王女として

       その生を受けて、宣統帝(後の愛新覚羅溥儀)を下支えする皇女として

 育てられたものの、辛亥革命によってその地位を父娘共々追われ、

     清朝再興の一策として当時中国の大陸浪人の代表格だった川島浪速の養女に

   なったのだが、養父の浪速とは反りが合わなかったのか、自殺未遂騒動などを起こし

      (騒動の真相については養父の浪速が芳子を強姦したという説もある)、

そこから断髪・男装をするようになり、「男装の麗人」の異名が付いた。

その後関東軍の斡旋で内蒙古馬賊を率いていたカンジュルジャブとの

結婚(3年程)、離婚を経て当時関東軍の上海駐在武官だった

田中隆吉と交際し始めた[注4]頃から、関東軍の特務工作の工作員として

関与するようになった。その特異な存在から当時の日満のメディアからは取材が

殺到したそうだが、当人はその頃から自らのアイデンティティの帰属に苦しみ、

後に日本や関東軍の行動や活動を批判するようになり、それから第二次世界大戦及び

日本の終戦までは軍の工作活動には協力せず、自ら表に出ることなく、自ら

逼塞した生活(実質上は関東軍の管理下に置かれた軟禁生活)を送っていた。

最終的には戦後に国民党政府により「漢奸」として扱われ、銃殺刑に処される

ことになるのだが、戦後長らく生存情報が日中台各国で流れるなど

(何れも人口に膾炙した風説の流布に過ぎないものではあったが)、

  ・参考情報リンク http://www.nakajimaworks.com/2010/20100615.pdf

https://kokusaizenrin.org/wp-content/uploads/2025/05/fujiwara1.pdf

【歴史ミステリー】悲劇の王女・川島芳子は処刑後も生きていた!? – video Dailymotion

その存在は死後もなお、日中台各国において独特の異彩を放ち続けている。

[注4] 最も、当時の川島芳子は田中だけではなく、笹川良一などの要人とも関係を持つなど

していたことが分かっています。また、李香蘭こと山口淑子との関係については、山口自身

の証言だけでなく、様々な資料の中に触れられておりますので、特段ここに記載する必要は

ないかと筆者としては感じましたので、本稿では割愛させていただきます。

終戦後にGHQによってA級戦犯として

逮捕、起訴されるも、何故か

証拠不十分の無罪放免で

釈放される!

 こうして公私共々我が世の春を謳歌していた里見でしたが、その栄華は長くは続きませんでした。日本の対米戦局の悪化に伴い、里見たち特務機関の面々は阿片工作よりも眼前の対国民党政府[注5]への対症療法に注力することとなり、やがてその工作についても米英蘭が主導し、攻勢を強めていた南方戦線の戦局悪化と玉砕の連鎖に伴い、活動そのものが八方塞がりの様相を呈することとなっていきます。

 恐らく里見自身も様々な情報の照合を行っていたことは容易に想像が出来ます。その渦中の最中で1943年12月、自らの根城であり、阿片売買の総本山である宏済善堂のトップを自ら辞し、満鉄と中華航空の顧問に就任します。

 このことは恐らく日本の敗戦と満州国の崩壊がその目前まで迫ってきていたことをジャーナリストの視点から冷徹に見抜いていたことを表すものであると筆者は見ています。

 また、阿片の売買相手であった中国周辺の馬賊勢力も日本及び満州の戦局悪化によってその間隙を突いたコミンテルン(この場合は中国共産党)の内外からの工作が効きはじめ、続々と従来の「親日」的態度から

「反日」的態度に転換し始め、「阿片工作」そのものが効力を失いつつある状態になりつつあったといった状況も、里見のこの行動に拍車をかけたものだと筆者は思っています。

 その後当時の日本が絶対国防圏と表明していたサイパン島の玉砕以降は特務機関の役割はもっぱら中立条約を結んでいたソ連スターリンや蒋介石、汪兆銘、チャンドラ・ボース等の要人を通じた平和裏で対等な和平交渉の構築に傾倒し、様々な工作を水面下で行っています。

 しかしそのいずれもが時すでに遅く、1945年8月8日の対ソ参戦(ソ連の実質的な日ソ中立条約の裏切り行為)によってそのすべてが水泡に帰す事となるのでした。満州国はソ連の怒涛の進撃に何等の対抗策も示せず、13年余りの短い建国の生涯を終えることとなりました。

 当然のことながら当時日本が各国に展開していた特務機関も満州国の崩壊及び日本の敗戦とともにその役割を終え、自然的な解散をしていきました。無論、「里見機関」もまた、その他の特務機関と同様に解散し、里見は中国から一時帰国し(本人は一時帰国のつもりで、時機を見て中国に戻るつもりだった)、日本に身を寄せることとなったのです。

 その後は潜伏生活のような生活を送っていましたが、1945年12月に当時のGHQから戦犯指定を受け、民間人では第一号となる(因みに被告としては大川周明、処刑された人物としては広田弘毅が知られている)

A級戦犯容疑者として逮捕、起訴されることとなり、巣鴨プリズンに入獄することとなったのでした。

 1946年9月、里見は極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)に出廷して証言を行うこととなります。

カラーで蘇る里見甫氏 極東国際軍事裁判1946年9月4日

「東京裁判」において証言台に座る里見。

「『重罪』間違い無し」の雰囲気が漂う中で

黙々、淡々と事務的手続きをこなす里見の姿は

なかなかに興味深い。恐らくGHQ側との間で

司法取引のようなものが行われていたのだろうか、

その後に里見自身に下される判決を里見自身が

予期していたのではないかと思うと、この里見の

一挙手一投足について、筆者としては非常に

感嘆せざるを得ない写真の一枚と言えるものである。

 日米開戦前から連合国の中で里見の「悪名」は共同租界の住人を通して伝わっており、里見に関しては彼を

「阿片取引の『ボス』」、

「死の商人」、

「工作機関の『親玉』」、

 等々様々な悪罵の声が投げつけられましたが、当の里見にはそのような声など馬耳東風といったところだったのでしょうか。連合国側の厳しい質問にも全く臆することなく、感情を動かすこともなくただ淡々と質疑に応じる里見の姿は少々不気味なものを感じます。

 里見の罪状については連合国の中でも意見が分かれ、当初は

「重罪にすべき」

というG2(参謀第2部)の意見が主流となっていましたが、やがて社会主義共産主義国への対抗策とその周辺国の宣撫工作の担当者として

「無罪放免にすべき」

というG3(参謀第3部)の意見を参謀本部が採用したことや、(前述した笹川良一の『逆コース』の路線と同じです。)戦勝国の一員と

なった中華民国の蒋介石の助命嘆願により、里見のこれまでの活動や

工作といったことを、GHQ及び戦勝国は不問に付す決定を下し、この

おかげで里見は裁判を同月付で不起訴となり無条件で釈放されることとなりました。この里見に関する一件を見ても、この所謂「東京裁判」というものが米ソの政治的なリンチ裁判に過ぎなかったことが垣間見えると思います(最も顕著な例として、当時の満州事変首謀した石原莞爾が証言台に立つこともなく、起訴、立件すらされなかったことがそれを物語っています((尤も当人は戦犯として裁かれることを望んでいたのですが。)))。

参考リンク

法話 太平洋戦争の真実 その15 ―戦争の天才:石原莞爾― –令和3年8月–【曹洞宗 正木山西光寺】

【日本陸軍 史上最凶の天才】石原莞爾 総集編【ずんだもん ゆっくり解説】

 また、東京裁判の中でA級戦犯として出廷した石原と同郷の大川周明は挙動不審な状態から「イッツ、ア、コメディー」と叫び、同じくA級戦犯だった東条英機の頭を叩くなどし、この裁判の茶番性を主張し続けました(後に脳梅毒と診断され、こちらも不起訴になっています)。

参考リンク

https://www.youtube.com/watch?v=PobInCfX51o

 こうして里見は戦犯の指定を免れ、各国の様々な思惑の渦の中を漂いながら、戦後の世界を生きることとなったのです。

(第五編に続く)

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ライナス

ライナスと申します。読書や日本の歴史、アイルランドやスコットランドの音楽が好きなので、皆様に紹介して共有できればと思っています。

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