まるで生まれる前の心地よさに抱かれている感覚。
それは誰もが求める不都合無き完全な世界だ。
悠華はその事象について考えることもせず自律判断も放棄して彼女の手を取ろうとして、気付いた。
彼女の着ている白いワンピースがまだらに土埃と血痕で汚れている。
そしてその装いにそぐわない竜の徽章と黒真珠に似た石があしらわれたピアス。
何より不自然に歪んだ口角が舌なめずりをした肉食獣をイメージさせっている。
悠華は咄嗟に取ろうとしていた彼女の手を振り払って問いかけた。
「なるほど、聞いたことがあるわ。かつて”ピジョン・ブラッド計画”の被験者の中に「人間を自分の心象世界に取り込み自我を崩壊させて従属させる」という異能を発現させた者がいること。そして今は不都合因子排除を担っている小山内家が匿っているということもね。」
正気を取り戻した悠華の様子に驚いた彼女は一瞬呆気に取られた表情を見せたが、次の瞬間あまりにも醜悪な笑顔で拍手を始めた。
「いやはや流石は藤御堂のお嬢様。貴女がかつて抱えていた最大の願望を叶えてあげたはずでしたがね。」
可憐な少女の口から出ているとは思えない嗜虐に満ちた声色は、むしろ自分の異能が見破られたことを楽しんでいるように思える。
「しかしネタが割れてしまっては仕方がない…こちらものんびりしてはいられませんのでね。速やかにお眠りいただきましょう。」
その言葉が再びこの場の空気を甘く染め上げ始める。
悠華は自らの大事なものをもう一度思い出し、心地よい追憶を振り切って男と対峙する。
その眼にはかつて救われなかった自分をも許容できる強い意思が確かに宿っていた。
