もはや生物が適応できない密度の空気がこの場に充満していた。
厳慈は紗絵に対して正直な話、真摯な回答を期待してはいない。
何故なら宵闇の中で日常を過ごす彼女にとって言葉は意思疎通をするだけのモノではないからだ。
そう、基本的に彼女が言葉を使う時は罪人に向けて死刑通達をするときに限られる。
彼女にとって言葉とは決められた運命を罪人に示すためのビジネスツールのひとつに過ぎないのだ。
それが分かっていながらも、厳慈は自分ならば対等な意思疎通をしてもらえるのではないかという儚い希望をもって紗絵の相貌を見つめた。
そんな厳慈の視線を慈母のごとき優しさで受けとめた紗絵は一呼吸置くと、いつものように通達を始める。
「そうですね…これからの未来に「救済の炎」を焚かなくてもいい可能性、と表現すればいいでしょうか。つまり誰もが裁きの火に怯えることなく暮らせる可能性です。」
紗絵の提案した持論は「異能者が常人と同じ安全保障を受けられる」というコンセプトではあったものの、異能者の優位性についてはノータッチであった。
むしろ異能者だけが人間であり人権が独占されるべきとの意図さえ含まれていた。
紗絵は自分の言葉と未来のヴィジョンに陶酔さえしていて、共感され賛辞すら当然と思っている様子である。
厳慈は紗絵の様子を見て危機感を拭えぬ状況になったことを認識する。
あれだけの襲撃事案をこなして尚自分の理想の高潔さを論じるとは…任せた自分の人選ミスだったか?
厳慈の焦りは自分自身の思考基盤をも揺るがしていた。
小山内家と事を構えるのは想定していなかったのだがな…
財団内で小山内家が握っているのは闇の中での秩序維持権限だ。
表立って処理できない異能者犯罪事案や能力の暴走鎮圧など彼らの協力無くしては困難を極めるのも自明だろう。
それらの懸念が表社会に広がるとなれば現状の社会的経済基盤を根底から覆す要因になる。
その重要さを誰もが認知していたからこそ表社会の治安維持を務める藤御堂家としても小山内家の暗部をサポートし連携を続け、日常の平穏を維持し続けてこれたのだ。
その前提を根本から覆そうとする紗絵の持論は「闇の中での秩序を持って日常を管理する」という意思の表明に他ならない。
厳慈は目の前の不穏分子に向け「交渉」を打ち切る意思を示した。
それは運命の分岐点として二人の運命を決定づけるものとなった。
