私が望んだモノこそが皆の幸せの器となるの。
彼女は恍惚とした表情で理想の枠組みを語っていく。
人々がそれぞれの喜びや嬉しさを共有できるネットワーク。
望んだこと全てを肯定され挑戦に十全なバックアップができるサポート体制。
…そして誰もが互いを尊重し尊敬していける日常が当たり前にある、そんな毎日が具現化するの。
彼女はとても楽しそうに自らの理想像を語り、共有できることが本当に嬉しそうに見えた。
涼やかな空気が流れる湖畔のテラスで交わされるこの会話は実はとりとめのない夢物語ではない。
”黒曜石の瞳”が具現化する「意識共有ネットワーク」や「思想共振現象」を元に実現可能な機密プランなのだ。
紗絵は彼女の夢想トークを聞きながらその思想背景に思いを馳せていた。
あらゆるこの世の「現実」に晒されてきたはずの彼女の精神は常人では想像できない抑圧を受けてきたはずだ。
信じていた者たちの裏切りや離反、敵性勢力に機密を売られることによる背任行為の責任を負わされたこと。
任せていたコミュニティの権限を乗っ取られ昔からの宿敵のごとく吊るしあげられたこと。
彼女自身の優秀さや異能に嫉妬や侮蔑が集まり、穏やかな日常を過ごす事自体が難しくなっていったこと。
それぞれが彼女の尊厳や自尊心を剝ぎ取っていき、本来許容されるべき人権すらなくなっていった。
それでも彼女はかつて理想を共有していた者たちとの願いを叶えるべく自らの持てる能力を全て行使して問題を解決していった。
…いつかは皆が自分の元へ帰ってきてくれることを信じて。
それでも終わりは訪れた。
彼女が創り上げた稼働基盤はかつての仲間たちを必要としないほど自律したモノとなり、それは彼女がその世界を必要としなくなるのに十分な理由となった。
そして自分の存在意義を失って路頭に迷っていた彼女が裏社会に目をつけられるのは当然な流れだっただろう。
彼女はその圧倒的なカリスマと実務能力によりすぐ頭角を現して、仲間からの信頼と組織からの評価を固めることになる。
そしてかつて失った理想像を今一度実現しようとしているのだ。
…戻ってくるわけもない思い出の日々の痛みを和らげるためだけに。
紗絵は無駄だと分かっていながらも彼女に対してひとつだけ忠告をしておくことにする。
「”サイレンス・メイデン”、斎木杏奈。貴女の持つ「論理性や論理的思考を崩す」異能とその実務能力があれば望むコミュニティや貴女の理想に忠実な人々をいくらでも作り出すことはできるでしょう。でも貴女の失われた日々は戻ってはこない…空虚な心の穴を自覚するだけよ。今の貴女を必要としている人たちを大事にしてあげて。」
柄にもないことを口にしてしまった紗絵はしまったと思いつつも杏奈の顔色を伺う。
そこにはいつもと変わらないあどけない少女の笑顔があった。
…そしてその瞳に闇夜の色がいつも通り満たされていた。
