熊に注意 後

 ●鈴木はるかの話

 山内と名乗った男はやつれていた。頬は瘦せこけ、額に刻まれた皺の深い白髪混じりの猫背の男だった。運転中、車内で身体が揺れる度に彼のジャンパーから松脂の匂いが漂った。

 人手不足の涼風に送迎スタッフが入ったのは予期せぬ朗報だった。役割分担できる数だけ、肉体、精神的にも負荷が減る。もちろん、彼が一通り施設から利用者宅までの道のりを暗記するまで、私や他のスタッフが交代で同伴し、これまでと同じように家々を回る。送迎初日は鈴木の番で、彼には助手席に座ってもらい、鈴木が運転する流れになっていた。

「山内さんは土地勘ある方ですか?」

 サイドミラーを確認しながらさりげなく声を掛ける。彼は軽い挨拶をしたきり黙を貫いていたため、鈴木としては居心地が悪かった。鈴木は、他人と一緒にいる間に沈黙が流れる時間が苦手で、耐えられなかった。そのせいか、朝から少し苛立っていた。

「どちらかといえば。出身は東京なんだけど二十年もこのあたりに住んでるので、流石に。仙台の秋はすごしやすいですね」

「ですね。私、晴れた日の朝はあえて半袖で風を浴びるんです。この時期の独特なひんやり感が好きで」

「それ、僕もします」山内が笑う。「鈴木さんはずっと仙台で?」

「ええまあ。……それにしても東京から仙台にわざわざ移住って珍しくないですか、逆ならわかるかもですけど」

「意外といますよ、脱サラして古民家に住み始めた人とか。テレビで観ませんか」

「それなら観ますね。こう、都会の喧騒に疲れて自然を感じていたい、的な。山内さんもそんな感じで?」

「いえ、物好きなだけです」

 ここまで言って山内はまた黙り込んだ。

 ●

「鈴木さん、少しいい?」

 午前中の入浴介助を終え、調理室前の配膳カウンターで麦茶を飲んでいたところ、鈴木は施設長に声を掛けられた。彼は山内と同年代らしいが、黒染めしたオールバックと背筋を伸ばした姿勢を保っているからか、比べるまでもないほど若々しい。

「はあ、私ですか」最近は利用者にため口で語っていたからかな、などと説教を予想していたが、違った。

「高野さんいるよね。実は、高野さんのお宅の側で熊の足跡が見つかったみたいなんだ」

「え」鈴木は目を丸くした。

「ご家族から連絡が来てね。あ、さっき電話で。だから帰りの送迎の際はあたりを注意してから下ろしてね。今日、山内さんについてるの鈴木さんでしょ。もし移動中に見かけたら、距離を取って、車の中から警察に通報。それから涼風にも。スマホ忘れないで持っててね」

「承知しました」と言い、鈴木は軽く頷くと、施設長はそそくさと事務室に戻った。

 熊が出るのは別に不思議じゃない。連日メディアが出没と捕獲状況を取り上げているし、地下鉄東西線、西公園駅付近にも現れたとも聞く。年々、悪い意味で身近な存在になっていたが、それにしても、まさかこんな近所にいるとは。突如として傍にいる実感が湧いてきて鳥肌が立つ。

 環境活動家が命を大事にしましょうと謳う一方で、住民の安全を最優先で熊は見つけ次第殺処分すべきだ、と声をあげる人々もいる。私はどちらの言い分もわかるし、開発によって削られた山に、食料がないせいで人里に降りて探さざるを得ない熊にも同情はできる。両者の発言が日に日にエスカレートし、最早、熊関係なく罵りあっている場面をSNSを通して見ていると、人とのコミュニケーションですら摩擦が生じるのだから、本能だけで生きている野生動物とは時間をかけても分かり合うのは難しい、とどうしても感じてしまう。話せばわかる、なんて相手が人でも時と場合によっては通用しない。

 入浴介助後は、スタッフ含め全員で軽い体操を行い、昼食に入る。この場合の昼食は、利用者のだ。献立自体は同じだが、誤嚥防止にとろみ付けしたり、塩分を減らすなど利用者ごとに食事形態を調整しているので、人によって違いがある。アレルギーにも当然、対応している。それらを必要としている利用者がわかるように、調理スタッフは予めお盆に名札を乗せるので、間違えることなく、正しい利用者に正しい食事を提供できる。

「高野さん、今日の昼食ですよ」鈴木は高野さんの斜め前から近付き、テーブルにお盆を置く。高野さんは庭に向けていた視線を鈴木に戻した。

「ああ、ありがとう。ところではるかちゃんは仙台の人?」

「……ううん、この前まで北の魔王城で魔王に仕えてたの」

「そうなの?」「嘘でーす」

 高野さんは大きなため息をつき、一部の利用者は、またはじまったと言わんばかりに冷たい眼差しを私たちに向ける。

 このやり取りをこれまで何度しただろうか。高野さんにとってははじめての会話に値するが、鈴木からすればとっくに鮮度は抜け落ちて、味のしないガムを嚙み続けているのに限りなく近かった。通所はじめたての頃はそこまでではなかったが、日に日に、高野さんの記憶のリセットは早くなっており、数時間や数日前、数か月前の、要するに最近の出来事は特に記憶が失われやすい傾向があった。

 が、昔の記憶であればあまり忘れていない。結婚や二十年前に亡くなられた息子との思い出はすらすらと言葉に出てくるし、誰もが幼少期に叩き込まれるだろう箸の持ち方も、身体が覚えている。本人にとって、忘れたくない、もしくは忘れてはいけない記憶は脳が自動的にロックをかけている、と鈴木は信じたかった。

 ●鈴木はるかと山内彰の話

「僕はさっき施設長から聞いたよ。びっくりした、この辺りは山も多いから」

「出てもおかしくはない、ですよね」山内に同意する。

 帰りの送迎での車内はやはり、というべきか、熊の話題で持ち切りで、家に着いたら柿の実を全部収穫しなければと下手に焦り出す利用者を、鈴木は宥めもした。行きと同じメンバーであれば自宅までのルートはもう覚えているから大丈夫、と、山内は言うので、鈴木は怪しみながらも運転を任せて助手席に座り、利用者宅に着く度に、利用者と降りて家族に軽い挨拶と体調変化を報告し、また送迎車に戻ってを繰り返した。

 山内はドライバーのお手本と言えるほど、走り出しから静かで丁寧な運転だ。急発進を避けて揺れを最小限に抑えたまま車を滑らせ、利用者に不安を与えなかった。鈴木は山内の運転を一種の気遣いと受け取っていた。

「旦那さん、心配してるかもねえ」言ったそばから鈴木は反省した。不安を煽る発言だった、と。車内は、スタッフを除けば高野さん一人となり、送迎車は最後の自宅を目指していた。高野さんの自宅周辺は、家の裏にはどっしりと山があり、玄関の前には畑が広がっている。まさに昔ながらの里山風景そのもので、畑から山にかけては緩やかな坂道が伸びている。

「どうかしら。……ねえはるかちゃん、私、お昼の薬ちゃんと飲んだかな。私最近忘れっぽいの、やっぱり認知症かな」高野さんはまた別の不安と戦っていた。

「私しっかり見てたよ、飲んでる飲んでる」

「そう?」

「そう」大丈夫ですから、と鈴木は念を押す。

「あ、そろそろ見えてきましたよ」山内が口を開く、と、同時に、山内は突如ブレーキを踏み、停車させた。反動で鈴木の身体は前に傾く。

「ちょ」鈴木は慌てる。「急に何してんですか!」

「いやあれ」山内は目の前の畑を指差す。

 鈴木は、山内が指を指し示す前に事の重大性を察知し、畑を見張った。

 黒い影が一つ、腰を下ろしていた。夕暮れの空はまだオレンジを残していたが、その場所だけは色濃く淀み、重い存在感を放っている。やがて影はゆっくりと足を伸ばし、土を抉った。とても静かに、畑から北の、つまり高野さんの自宅へとゆっくりと歩を進めていた。鈴木は呼吸ができなくなりそうなほどの重圧を感じていた。

「警察に連絡します」鈴木は声が震えている。

「わかった。じゃあ僕のスマートフォン持ってて」

「私自分のスマホあるので」鈴木は、山内が気が動転してしまったのだと思った。こんな場面に出くわす機会がある方が珍しいので無理もない、と。

「あ、そうじゃなくて、これで動画撮ってくれる?」ジャンパーのポケットからスマートフォンを取り出した山内の眼は、まるで十年、二十年と若返ったように光を帯びていた。「鈴木さんは自分の携帯で通報しながら、僕の携帯で熊の動画撮ってて」

「撮影なんて自分でしてくださいよ!」鈴木は頭が痛くなる。

「いや、僕はこれから熊を引き付けて落とし穴に落とす。出来るかはわからないんだけど」

「駄目です、普通に言ってることが私にはわかりません。山内さん、一度深呼吸して落ち着いてください」落ち着いていないのは自分も同じだが、通報よりも先に、ハイになった山内を冷静にさせる方を鈴木は優先した。が、結果はついて来なかった。

「これ」山内は車のキーを鈴木に手渡す。「いい、僕が車を出たら、直ぐ鈴木さんが運転席にずれてね。この山にあるんだよ、落とし穴が。ね、高野さん」

 山内の言葉に高野さんが目を見開き、思い出したように両手の平を合わせる。

「あったわ、ああ、そう。貴方、そう。そうだったのね、お互い歳を取りましたね」

「あんたら」鈴木は怒りを通り越して呆れてきた。「何なの。あるんですか、本当に落とし穴が? だとしても無謀です。全力で坂を駆け上がって山まで? 辿り着く前に捕まりますよ、熊は逃げる者を追いかけるんですよ」

「好都合だ」山内は運転席のドアを静かに開け、足を地面に降ろした。「ごめん、後はお願い」

「グロ動画にならないように!」鈴木は声をあげる。

 グロって何ですか? と山内に訊かれた気がしたが、鈴木は咄嗟に、薄く開いたドアを勢いよく閉めてしまった。山内は山へ向かって走り出す。

 ●山内彰の話

 仙台の冬は、東京と比べると寒かった。特別雪が降り積もっていたわけではないが、肌を貫くように風が身体を追いつめる。火葬場の玄関前に設置された簡易的な灰皿を背に、山内は煙草を吸い続けていた。知り合いのいない葬儀は気まずく、人との距離を置きながら心を落ち着かせていた。腕時計で時間を確認しようとした瞬間、背後に気配を感じ、玄関から黒い影が近付いてきたので会釈する。高野の母だ。昨日のお通夜で山内ははじめて挨拶をしたが、その日も今日も目が赤く腫れていた。

「中に入ったらどう、寒くない?」

「いえ、僕は大丈夫です。お心遣いありがとうございます」

 高野は徐々に容態が悪化し、一年前後の闘病生活に終止符を打った。それが未だに信じられなかった。以前、一度だけ見舞いに行った際の態度は、高野なりに精一杯、自分らしさを僕の前では演じていたのかもしれない。

「そう。聞きたかったんだけど今いい?」「はい」

「山内君、息子とコンビ組んでからテレビに出るまでってどうしてたの。親として情けないけど、テレビで騒いでる息子しかわからなくって」

「ああそれなら」山内は頷く。「結成当時はビデオカメラで録画したテープを事務所に送り続けてました。漫才だけでなく、モノボケや一発芸と、とにかくなんでも出来ることを。ふざけの塊みたいな、そんなテープです。それから所属先が決まって、って感じですね」

「じゃあ」高野母は口角を上げる。「あの穴は一からやり直すつもりでって意味? 撮影用だったのね」

「落とし穴、ですか?」恐らく病室で高野が語った例の落とし穴だろう、が、高野母の言う、一からやり直すが山内にはぴんと来なかった。

「そう。あの子解散して直ぐに実家に帰って来て、いつかもう一度山内君と馬鹿やるんだとか言って、うちの山に行って一人で大きな穴掘ってたのよ」

「え、はあ」山内は戸惑う。高野から聞いた話と食い違っていた。「他に落とし穴はあったりしますか? 例えばですが、局のスタッフがお邪魔して持山に穴を掘ったりは……」

「息子の掘った穴しかないわよ、あんまり穴があったら歩くのが怖くなる」高野母は、冗談じゃない、と言うように怪訝そうな顔を見せた後で、少し笑った。

 もし、と、山内は考える。高野母の話が本当だとしたら、高野は嘘をついていた。企画倒れどころかそもそもドッキリ企画なんて存在せず、ただ単純に、また二人でふざけるために一人で穴を掘っていたのだ。山内は、呼吸を整える。

「ご家族の前で言うべきではないかもしれませんが」

「いいわ、続けて」と高野母。

「勝手に期待して落とし穴なんて作って、それを託すように亡くなったんじゃ呪いじゃないですか、そんなの」

 感情を表に出さずにはいられなかった。何の前触れもなく一人で穴を掘られた挙句、無理難題を押し付けられる。元相方が亡くなった今でさえ、山内は漫才同様に振り回されているようにしか感じなかった。

「ほんとにね、貴方の言い分は正しいわ。死ぬ前までは願いだったのに」 

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行谷いさご

たまに講座を受けながら十年ぐらいエッセイを書き続けています。くどい言い回しが表れたり、感情を挟む以上に説明文が長かったり、その辺を何度も読み返して反省を繰り返しながら一作品、また一作品……と、丁寧に、少しずつ作り上げていきたいです。

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