第一章
私は今、空を飛んでいる。いや、正確には落下しているのだから滑空か。まあ、そんなことはどうでもいい。 「危機に直面すると、時間の流れが遅くなる」という噂は本当だったらしい。走馬灯のように、こんな長々とした思考が巡っているのがその証拠だ。
「はぁ、20代の若さでお陀仏か……」
そう諦めかけた直後、ふと強烈な思いが頭をよぎった。
(……私は、まだ死ぬわけにはいかない)
その瞬間、後頭部に激しい衝撃が走り、私の意識は深い闇へと沈んだ。
目を覚ますと、そこは見知らぬ病院のベッドの上だった。 傍らには職場の同僚が心配そうな顔で立っている。話を聞けば、工事の作業中に足を踏み外し、頭から転落したのだという。ついていない人生、その「最悪の日」の記録が今日、更新された。
同僚たちが帰り、一人きりになるとやることもない。私はリハビリを兼ねて病院内を歩き回ることにした。 退屈しのぎにどんな入院患者がいるのか見て回っていたとき、一人の女性が目に留まった。
雷に打たれたような衝撃だった。見た目が私の好み、そのど真ん中だったのだ。 「これは運命だ」 本気でそう思った。だが、小心者の私には面と向かって話しかける勇気などない。
そこで、彼女に手紙を書くことにした。我ながらあまりの意気地無さに呆れるが、毎回来る看護師に託して、彼女の元へ届けてもらった。
翌日、彼女から返信が届いた。 文面は「誰ですか?」の一行だけ。少し寂しさは覚えたものの、すぐに返事がもらえた嬉しさのほうが勝った。
それからというもの、来る日も来る日も、私は彼女に手紙を書き続けた。 いつしか手紙のやり取りは驚くほど盛り上がり、日々の文通が私の生きがいになっていった。
しかし、ある時期を境に、手紙から彼女の元気が失われていくのを感じた。 理由を尋ねると、切ない言葉が返ってきた。
『毎日会いに来てくれていた人が、少し前からぱったりと来なくなってしまったのです』
「世の中には似たような境遇の奴もいるもんだなぁ」と思いつつ、私はその人の連絡先を知らないのかと尋ねてみた。だが、彼女は連絡先はおろか、名前すら知らないという。
『私はもう長くないので……。きっと、そんな私に対する彼の気遣いなのでしょう』
手紙に綴られた彼女の諦念が、たまらなく気の毒だった。
しばらくして、私の退院が決まった。 なぜだか急に気まずくなってしまい、結局、最後の最後まで手紙を出すことはできなかった。私は彼女と一度も顔を合わせることなく、病院を去った。
第二章
私は今年、高校を卒業した女の子。 勉強が苦手で大学進学は諦めたけれど、なんとか働ける場所は見つかった。 求人で見つけた工事関係の仕事だ。体を動かすことが大好きな私には、ぴったりだと思った。
「新しい環境に、新しい人たち。どんとこい!」
気合を入れ、初めての職場へと向かう。これから同僚としてやっていく人たちと、挨拶を交わしたその時だった。
一人の男性の姿が、妙に目に留まった。 なぜだか分からない。けれど、どうしようもないほどの「懐かしさ」を彼から感じたのだ。
そんなはずはない。だって彼は40代半ばほどのおじさんで、これまでの人生で一度だって会ったことがないのだから。 「これが、デジャブってやつかな」 私はそう無理やり納得することにした。
けれど、しばらく彼と一緒に働いていくうちに、その違和感は無視できないほど大きくなっていった。 初めて会ったときに抱いた懐かしさは、薄れるどころか、日を追うごとに強くなっていく。彼の言葉遣い、何気ない動作、細やかな気遣い。そのすべてに、もはや「運命」としか呼びようのない感情が湧き上がってくる。
(ダメだよ、私は18歳で、彼はおじさんなんだから。不自然すぎる)
頭では必死に否定しようとした。けれど、胸の奥から湧き上がる愛おしさを拒絶する材料を、私は「年の差」以外に持ち合わせていなかった。
もういっそのこと、話しかけて仲良くなってしまおう。 意を決して声をかけると、彼はあからさまに緊張した様子で返事をした。若い女の子に話しかけられることなんて滅多にないだろうから、無理もない。私は彼のペースに合わせるよう、優しく会話をリードした。
彼の話は、信じられないほど面白かった。 毎日、毎日、来る日も来る日も、私は彼の話を聞きに行った。ただ純粋に楽しかった。 そんな日々を過ごすうち、あのとき感じた「運命」は、あながち間違いじゃなかったのかもしれない、と確信に変わっていった。
第三章
あの病院を退院してから、もう10年以上が経つ。 私は相変わらず現場で働き、変わらぬ日々を送っていた。そんなある日、めずらしく新人が入ってくるという。万年人手不足のこの業界では珍しいことだった。
初出勤の日、挨拶に現れた新人を見て驚いた。うら若き女性だったからだ。 それからしばらく一緒に仕事をしていたが、ある日突然、彼女のほうから私に話しかけてきた。
面食らったが、彼女がこちらのペースに合わせてうまく会話を繋いでくれたおかげで、とても話しやすかった。
ある日、彼女は、日々強くなっていく「懐かしさ」の正体を知るため、彼の過去について尋ねてみることにした。 彼は、この仕事に就いたばかりの若い頃の話から始めてくれた。
順調に昔話をしていた彼だったが、途中で急に、何かを不可解に思ったような、妙な表情を浮かべた。 彼女が不思議そうに首を傾げると、彼は慌ててそれをごまかし、別の話しを始めた。彼女は途中で途切れた話――何か「手紙」にまつわる話――が猛烈に気になったが、彼は「少し一人にしてくれ」と言い残し、足早に立ち去ってしまった。
彼女に過去を聞かれ、私は特に断る理由もないので話し始めた。 とりあえず、この工事の仕事を始めた20代の頃から振り返る。
しかし、途中まで話したところで、脳裏に猛烈な違和感が走った。
(あれ……? 病院に入院する前、何か、とても大事なことをしていなかったか……?)
言葉が詰まった。ひとまず気を取り直し、事故で病院に運ばれたあとの話、あの好みの女性と手紙のやり取りをした話をしようとした。しかし、なぜだかその話を出そうとすると胸が締め付けられる。話は支離滅裂になり、彼女も怪訝な顔をしていた。私はたまらなくなって、その場を離れた。
第四章
一人になり、思考を巡らせる。
あの転落事故が起きるより前、確かに私はこの仕事をしていた記憶がある。 しかし、当時の「仕事が終わってから帰宅するまで」の記憶の辻褄が、どうしても合わないのだ。
私の記憶では、仕事が終わったらすぐに帰宅していたはずだった。 だが、記憶の中の「帰宅時間」がどう考えても遅すぎる。職場から自宅までの距離なら、こんなに時間がかかるわけがない。 それに、時々、帰宅途中にコンビニの袋を手に提げている記憶がある。 だが、当時の職場から自宅までのルートには、コンビニなど一軒もなかったはずなのだ。
私は確信した。
私には、すっぽりと抜け落ちている記憶がある。 それも、人生において、絶対に忘れてはならない極めて重要な記憶だ。
(あの時、私は毎日、どこへ通っていたんだ?) (転落する直前、『まだ死ぬわけにはいかない』と思ったのはなぜだ?) (そして……今目の前にいる彼女は、一体――)
それが何かを知りたいと、私は強く、強く願った。
