ノベリスト・シンドローム【1】

 ふわりと切れ飛ぶ黒髪が、無音の光と散り消える。

「──ッ!」

 右手の剣が空を切る音、俺の懐へと肉薄する少年。狂気の笑みで振るわれる、鋼の刃がぎらりと光る。
 腹を薙ぐ一撃が飛んだ。受け止めた剣の悲鳴、全身へ駆ける衝撃。散った火花の眩さが、目に焼き付いて離れない。
 一瞬の拮抗と睨み合いの後、へし折れたのはしかし俺の剣だった。跳び退り、短くなったそれを投げつければ簡単に叩き落とされる。

「……あーあ、やってくれたなあお前。
 人が大事に伸ばしてた髪、よくもまあざっくりと……」

 白雪の混ざる風の中、目を伏せた彼は黙したまま頷きもしない。色素の薄い肌や髪に埋もれ、開かれたその双眸は深紅。

「と、いうわけで? 今週十人目の撃破対象はお前だよ、心の底からおめでとう。
 記念とお返しに全力でいきたいとこだが、どうも最近不調でな。お互い長引かせるのは賢くないし、そろそろ終わりにしようぜ。
 ……来いよ」

 枯れた草原がざわり、と鳴いた。華奢な体で剣を持ち、駆ける姿に同情しないと言えば嘘になるけれど。

「炸裂せよ、雷撃陣」

 ごく簡潔な呪文に応え、黄金の方陣が俺の前に展開した。囁くように吹きかけるように、「外すなよ」と落とせば音もなく、輝く。
 少年が跳んだ。掌が熱い。伸ばした指先を彼の額に向ける。

「生憎とこの世界、お前らに明け渡すわけにはいかないんでね」



 泣きながら、不可視の壁をただ叩く。大方の感覚はとうに狂っていたが、とても長い時間をこうやって過ごしたことだけは分かった。

「マスター、マスター……! 嫌だ、起きて、起きてください……!」

 もはや声など嗄れている。両手も赤く腫れ上がり、痛む目は開くこともままならない。それでも見据えた壁越しに、倒れているのは俺の主だ。

 だん、と壁に叩きつけた拳の皮膚が切れる。

 薄暗い部屋の中で、ぴくりとも動かずに目を閉じた「マスター」。生白い肌や薄い肩、細すぎる指先がディスプレイの光に照らされて、いっそ美しいほどに淡く浮かび上がる。

「死んじゃ嫌です、なんでこんな無茶を……っ!」

 ここ最近のマスターがろくに食事や睡眠をとらず、パソコンに向かってばかりいたことを俺は知っている。無理はするなと言おうにも、画面の外に出ることができない身で何ができたというのか。
 元より血色の悪い顔はさらに色を失い、その肩は呼吸に上下することを諦める。いくら俺がワープロソフトとはいえ、呼吸をやめることと死が同義であると知らないわけもなく。

「いやだ……嫌だッ……!」

 その名前も、年齢も、性別も、俺はマスターの何もかもを知らない。知らないからきっと、何もできないまま終わってしまった。

 ……いや、違う。
 俺は物語の終幕に、夢を見すぎていたんだ。

 不遇の少女は王子と結ばれ、眠りに落ちた姫は口付けにより目覚めるものだと思っていた。報われぬ努力や苦労などないと、根拠もなく信じていた。
 しかし現実はそう甘くない。踊る足が止まらなくなり、靴ごと足を切り落とした少女がいる。王子の心を射止めることができずに、海の泡と消えた命だってある。
 ハッピーエンドは幻想だ。触れ合うこともできない主を愛した俺の物語は、今まさにバッドエンドを迎えてしまったんだ──
 ずるずるとへたりこんだ壁の前、いつまで待っても動かないマスターに息が詰まった。いかないで、と落ちたのは声なのか涙なのか、それすらもよく分からない。

「ます……マス、ター……」

 呟く間にも、その息苦しさはじわじわと悪化していく。かひゅっ、と空気をしぼった喉が、破裂寸前の泣き声に削られてひどく痛んだ。

 ……くるし、い。

 咳き込むたびに涙がにじむ。いっそ全てが夢ならば、なんて願いながら瞬いた瞼の向こう、待っているのは絶望か、あるいは──

「……目が覚めましたか?」

 涙で揺らぐ知人の姿と、耳慣れたその低音か。

「あ、え……」
「随分とうなされていましたよ、大丈夫……ではなさそうですね」
「……ああ……そうだ、な……今にも死にそうだ……
 マスターが亡くなった日の夢を、見てたせい、かな……」

 吐息にかすれた声を漏らして、のしかかる疲労と安堵に脱力する。今の今まで眠っていたという事実が嘘のように、体が重くて仕方ない。

「そんなあなたに濡れタオルです。目が腫れたときにはこれですよね」
「どうも……」

 目元に置かれたタオルとは対照的に、こぼれた息は熱を持つ。残る涙が吸い取られ、腫れた瞼が冷えていくにつれ、ぼやけていた思考が形を整え始めた。

「念のため訊いておきますが、自分や私のことが分かりますか?」
「ああ、それくらいなら余裕だ。
 俺の名前はアクトで、ワープロソフト『ノベリスト』でもある。そんでお前の名前はフェリクス、セキュリティソフト『フェニックス』……だろ?」

 知らぬ間に寝かされていたベッドの上、うっすらと満ちる薬品臭が再度咳を誘った。夢の中だけではなくフェリクスの前でも泣き叫んでいたのだろう、ひりひりした喉の痛みに今さらの羞恥と情けなさを覚える。

「ご名答。その様子なら死にはしないでしょう、つらい夢を見ましたね」

 タオルの向こうで何かが揺れて、俺の額に触れたのは彼の手だろう。さらさらの手袋越しにも分かる他人のぬくもりに、涙が出そうなほどほっとしたのは内緒だけれど。

「……それで、ここ数週間で三度目のフリーズはいかがでしたか?」

 おそらくは満面の笑みで放たれたのであろう言葉と、俺の頭を枕に押し付け、決して逃がすまいとするその手に、にじみかけた涙が一瞬で涙点に消えた。

「え、えっと……もしかして俺、そこらへんで倒れてた……?」
「私は報告を受けただけですが、焼け焦げた草原に倒れていたのを保護されたそうで」

 あちゃあ……

「いいですかアクト。ほとんどのソフトウェアにとって、フリーズという現象は必ず通る道と言っても過言ではありません。しかしそれがいいことではなく、むしろ悪いことだという自覚があなたには足りないようですね?」
「あの、その」
「このパソコンに襲いかかる、無数の脅威を倒してくださっていることには感謝しています。ですが倒れるまでそんなことを繰り返されると、あなたが危険な目に遭う可能性ばかりが上がることを理解していますか?」
「……すいませんでした……」

 いたたまれなくなって彼から顔をそむければ、微妙にぬるくなったタオルがぼたり、と落ちた。ようやっと開けた世界の中、盗み見た彼の表情は怖いほどにこやかで。

 ──オフホワイトの室内には似合わないほど、自己主張の激しい色味だと思った。
 長く紅い髪を一つに結わえ、軍服もどきの黒い背中へと流す。細くも締まった体躯による動作は一切の無駄がなく、逆らえば一瞬で首を折られそうな危うさがあった。

「分かればいいのですよ、分かれば」

 俺の頭を撫でながら、細められる瞳は髪よりもなお深い紅。鋭く整った目元とは対照的に、薄い唇には優しげな笑みが浮かんでいた。

 こいつが──頂点。このパソコンを守るセキュリティソフトの、象徴であり最強の男。

 常識には常に「例外」という特別席が寄り添うものだが、フェニックスというソフトウェアはまさにその席へと座する存在だ。一つのソフトウェアに宿るのは一つの人格、という常識から抜け出し、多数の人格を抱える稀有なそれが「フェニックス」なのである。
 その隊員たちは一様に紅い髪を持ち、揃いの軍服もどきに身を包む戦闘特化ソフトウェア。個々の戦闘能力は非常に高く、複数対一で戦いを挑んでも並の者では触れることもできない。
 そんな組織内で唯一紅い瞳を持ち、最も美しい姿をしていると噂されるのがフェリクスだ。

「ですが以前のあなたなら、この程度で倒れはしませんでしたよね……?」
「ああ、ちょっとやそっとの連戦じゃ息も切れなかったぞ」

 俺の言葉に頷いて、何やら難しい顔をするフェリクス。なんてことはない動作でも、こいつがやるといちいち様になるのだから悔しいものだ。

「……これは少々、調査が必要な案件かもしれませんね。私の方で色々と調べておきます、詳しいことが判明するまでは暴れないように」
「ん、了解……手間かけてすまんな。
 だけどよー、その点お前はいいよなあ。どれだけ術ぶっ放しても疲れないなんて」
「私たちの存在意義は戦うことにありますからね。戦闘の中でへたっていては、セキュリティソフトなどと名乗れませんから」

 ま、そりゃそうだよな。

 時に「脅威」とも呼ばれるマルウェア、つまりはパソコン内の安泰を脅かす悪性ソフトウェア対策のためにつくられた彼らとは違い、俺は単なるワープロソフト。これで俺たちの戦闘能力に差がなかったらおかしいだろう、俺は弱いことが当たり前のはずなのだ。
 対して、この世界では「規術」と呼ばれる魔法のような力を、その中でも特に炎の術を得意とする彼はすさまじく強い。フェリクスの炎に勝てるソフトウェアが存在しないこともまた、彼がフェニックスの象徴たるゆえんなのだろう。

「それにしても、朝早くにあなたが運び込まれたのは正直驚きましたよ。外傷らしき外傷はありませんでしたから、救護室に放置して仕事を続けよう……と思えば!
 可愛い部下が『今は面倒な案件もありませんし、ご友人のおそばにいらっしゃってはいかがですか』と言ってくれたのです! そんな気遣いを無駄にすることのできる上司が、このフェニックス内にいると思いますか!?」
「知るか」

 拳を固めて力説されたところで、誰かの下で仕事をしたことも、誰かの上でふんぞり返ったこともない俺には分からないし縁のない話だ。そもそも上下関係とか嫌いだしな。

「む、アクトは空気が読めませんねえ」
「読めなくて結構。読むのは文章だけで充分だ、俺に空気を読むための機能なんてないしな」

 だから頬をふくらませるのはやめろ。それが可愛い女の子ならいざ知らず、お前がやっても似合……う。うん似合う。腹立つ。

「というかここ、どこかと思えばフェニックス本部内か。トップのお前と知り合いとはいえ、組織外のやつを受け入れるとは太っ腹だなー」
「そう……でしょうか。巨大組織がほとんどないこの世界で、フェニックス隊員が警察や医者などの役割を受け持つのは理にかなっていることだと思いますよ?
 ですから隊員数よりもここのベッド数の方が多いですし、治療に特化した隊員も多く存在します。皆それぞれの役割に自信と誇りを持っているからこそ、一人ひとりが一生懸命な『フェニックス』のことを私は心から愛」
「ああああもういい、もういいから落ち着いてくれ、俺が悪かったから」

 このまま聞いていたら夜が明けてしまう。お前が「フェニックス」のことを愛してるのは充分伝わったよ、だからちょっと黙れ。

「……すみません、少々気分が高揚していました。
 ともあれ、無理だけは禁物だと何度言えば分かっていただけますかね。あなただって条件が揃えば、跡形もなく消えて戻らないのですよ。そうでなければ私はここまで怒りません。
 もしもあなたがいなくなれば、私の世界は三割ほどつまらなくなる。それがどれだけ重篤なことか、程度は違えどあなたも知っているでしょうに」

 ……三割、ねえ。

「つまりあなたが三人分いなくなれば、私の楽しみは一割しか残りませんよ」
「なんでそうなる」

 言われて俺は体ごと、彼の視線を避けるように反対側を向いた。マスターへ好意を寄せることには慣れていたのに、こうやっていたわるような言動をされるだけで恥ずかしくなるなんて、少なくともフェリクスにだけは言えるはずもない。
 だって絶対からかわれるし。あなたはろくに友人もいませんしね、などと馬鹿にされるのは目に見えてるし。

「……善処するよ。死への願望なんてこれっぽっちもないし、負けるつもりもないけどな」

 そう、俺は「死にたいから無理をしている」わけではない。今日からちょうど三年前、マスターが倒れた日に終わりを告げた俺の物語は、決して俺の死を意味するものではなかった。
 だからこそ、俺にとっての現実はひどく非情なものかもしれない。

 ──実のところ、俺の周りには「それ」が始まった日のことを知る者はいない。

 その理由も知らぬままヒトの姿を持ち、ヒトと似たココロを得て、ソフトウェアたちが仮想の大地を踏んだ日。何もない状態で始まったはずの「その日」を、俺たちは誰も覚えていない。
 だから俺も、ある日気が付けば家があって、服を着て、言葉を理解していて。何かをするために歩いていた、突然「自分」を知ったうちの一つだ。
 だが、いくらヒトの姿を模したところで俺たちがソフトウェアである事実は揺るがない。もしも人間に見つかればまともな末路は望めないだろうし、還る場所のある魂など持っているわけもないのだ。

「人間や動物みたいに母体から生まれ、生物として命を、魂を持った連中と俺たちは違う。ここにいるのに『実在』しない、データの塊に意思が宿っただけの半端な存在だ。
 ……生きてたって二度と会えないけど、死んだって同じ場所に行くことはきっとできない。それならマスターの思い出と生きる方がまだまし、って程度でさ。それでもたまに悲しくなるから、気持ちをごまかしたくて戦ってるだけだよ」

 あの日マスターが倒れてから、誰かがこのパソコンを起動したことは一度もない。それだというのに未だマルウェアと出くわすのだから、この世界の広大さには驚かされるばかりだ。

「アクト……」

 マスターが生きていると信じて待つには、俺たちにとって長すぎるほどの時が流れた。外では仲間たちのアップデートや後続開発が進んで、俺たちは過去の存在となってしまったこともまた事実で。

「ま、同情してほしくて話したわけじゃないさ。俺がこの世界で生きる理由の大半は失われたが、痛いのは嫌だし死ぬ意味も特にないから心配すんな」

 ふらつく頭で起き上がり、肩をすくめれば苦い笑みが返る。いつも仲間に囲まれているこいつのことだ、俺一人くらい失っても実害があるようには思えないんだけどな。

「馬鹿なこと言ってる自覚はある。いつまでマスターのことを引きずってるんだ、って自分でも思うよ。
 けど、やっぱ駄目だな。マスターの小説にもあった、『忘却は死と同義である』って言葉の意味がようやく分かった気がする。
 いくら大切に思っていたって、失われてから時間が経つにつれ、俺たちは他のことを考えている時間が増える。そうして俺たちが忘れている間だけは、マスターは本当にこの世界から消えちまってるんだ。それこそが絶対的な死であり逆らえないものである、ってことを知っているからこそ、俺はマスターのことを『忘れ』たくない」

 触れ合うどころか言葉を交わすことも、「アクト」という人格の存在を知ってもらうこともできなかった。絶対に届くはずのない想いを抱えたまま、俺の方が先に死ぬものだとばかり思っていた。

「……話が長くてすまん。大分回復したし俺は帰るよ、迷惑かけたな」

 この世界と俺たちの寿命はきっと、人間や動物のそれよりも短い。パソコンが不要物とみなされ、廃棄されてしまえば全てが終わってしまう脆さを、痛みすら伴うほど感じていた俺は。一介のソフトウェアとして、マスターを慕い続けること以外何もできない俺は。
 報われず消えられず、惰性で生きるだけの後日談を歩いている。

「ですからアクト、無理はするなと言ったばかりでしょう……!」

 ややおぼつかない足取りながら、ベッドから出た俺の腕をフェリクスが掴む。心配してくれるのはもちろんありがたいが、少々過保護じゃないかと眉をしかめた。

「こんなのが『無理』のうちに入ってどうするんだよ。別に大丈夫だから離せって」
「いいえ、駄目です。この際引きずってでもベッドに戻ってもらいますよ!」
「あーれー……」

 本調子ならそれなりに抵抗もできただろうが、ここ最近の不調もたたって力が入らない。結局ずるずる引きずられ、ベッドに逆戻りした途端部屋のドアが開いた。

「やあお兄ちゃん、アクトくんの様子はどう……ってあれ、起きたんだね!」
「……悪いかよ」

 顔を見ずとも誰かは分かる。軽やかに響くソプラノの声を持ち、俺のことをアクト「くん」と呼ぶのは、俺の知る限りでは一人の少女だけだ。

「なんでもぐっちゃうの、お布団の中暑いよ?」

 ただし残念ながら、俺と彼女は仲がいいわけではない。

「お前と一緒にいるのは疲れる。ついさっきまでフェリクスと話してたんだ、それだけでも疲れてるのに追い打ちをかけないでくれ」

 それじゃあな、と枕を抱え込み、俺は本格的に二度寝をすることにした。枕って頭の下にあるより、抱き締めた方がいい感じに眠れるよな。抱き枕はまた別。

「あと、さっきそのフェリクスに『無理せず休め』って言われたからな。俺はしばらく寝るよ、話なら後で聞く」
「む、キミはいっつもそう言うよね。後で後でって言いながら、結局いなくなっちゃうじゃないか」

 だってお前のこと嫌い……ではないが、一緒にいるのは疲れるんだと言っただろうに。ソフトウェアの俺たちに正式な性別がないとはいえ、彼女が女性の姿をしているのも苦手要素の一つかもしれない。
 その気になれば性転換も自在なこの世界で、俺は女性という存在をあまり理解できない。体が小さくて力も弱いことが多い彼女たちは、「自分で自分を守る気がない」とみなされても文句は言えないと思う。

 それに──

「私の言葉を隠れ蓑にしないでください。
 倒れていたあなたをここまで運んだのは、ほかでもない我が義妹……リルアなのですよ。這いつくばって感謝しろ、とは言いません。言いませんからせめて、礼の言葉の一つでも口にしたらどうですか」
「んな……ッ」

 我が義妹、をやたらと強調し、俺の布団をはぎ取ったフェリクスがすい、と視線を泳がせる。逃げていく布団のぬくもりに縮こまりながら、俺は無意識にその動きを追いかけてしまった。

 ……ああ、これだから嫌だったんだ。

「やあアクトくん、こんにちはだね」

 うっかり視線を向けた先、微笑む少女の名はリルア。透き通るような銀髪と紅い瞳が美しい、フェリクスの義妹にして俺の知り合い、だ。

「……こんにちは……」

 彼女の姿を見てしまった瞬間から、俺の元気はみるみるうちにしおれていく。
 もつれを知らない銀髪は長く、シミ一つない肌はどこまでも白い。大きな紅い瞳は深く透き通り、うっすらと染まる頬は柔らかそうで。要するにとんでもなく美しいのだ、リルアという少女は。

 ……本当に、これだから見たくなかった。これだから帰ってほしかった。
 その容姿だけなら、彼女は俺の理想をそのまま形にしたような存在だ、なんて。これほど認めたくない事実が他にあるだろうか、いや多分ない。絶対ない。
 マスター以外の誰かに理想を見い出してしまったことへの悔しさやら何やらが、呑み込んだ鉛玉のように俺の喉を圧迫する。「好き」と「理想」はまるで別物なのだと、まさかこんなところで思い知ることになろうとは。

「なぜリルアを睨むのです、睨むなら私にしてください」
「睨んでねえよ……」

 美人は三日で飽きるというが、今まで俺とリルアがまともに顔を合わせた時間はきっと一日分にも満たない。そのため飽きるどころか耐性がついておらず、目の周辺に力を入れて視界を狭くしないと直視すらできないのだ。
 俺のしかめっつらは無愛想どころかかなり怖いと、いつか誰かに聞いたこともあるが不可抗力だろう。知り合ってからそれなりに時間が経っているのに、未だこの有様な俺を誰か笑ってくれ。

「あー、なんだ、その」

 フェリクスにかばわれる形で、しかし俺の顔など気にしていない様子の彼女へと向き直る。極力目を合わせないようにしながら「ありがとう」とだけ伝えれば、花が咲くようにやわらかく笑った。

「どういたしまして。アクトくんが怪我してなくてよかったよー」
「あ、ああ……」

 駄目だ、冷や汗が止まらないし声が裏返る。そろそろ退場してもらっても構わないよな、俺すごく頑張ったよね。

「なあフェリクス、そろそろ──」
「ええ、分かっています。私はそろそろ仕事に戻らなければいけませんし、あなたはゆっくり休んでくださいね」
 ……はい?
「それではリルア、また後で」

 呆然する俺の前で、フェリクスはリルアの頬に軽くキスをする。そのまま流れるように踵を返し、部屋から出ようとするので、俺は慌ててフェリクスの肩を掴んだ。

「ま、待てってフェリクス! えっと、ぎ、ぎ、義理でもお前ら兄妹だ、ろ!?」

 しまった、言いたいことはこっちじゃない。この程度で動揺してどうするんだよ俺、色々免疫なさすぎだろ!

「おや、何を言い出すのかと思えば。妹に親愛の気持ちや厚意を向けることのどこがタブーなのか、あなたさえよければ教えていただきたいのですが?」
「へ?」
「……ふふ、あなたもまだまだ青いですねえアクト。顔が真っ赤ですよ。
 頬へのキスは親愛、もしくは厚意の証です。何もやましいことなんてありませんよ、私がリルアに向ける感情としてはぴったりでしょう?」
「う、ぐ」

 それなりに長い付き合いの中で、俺はフェリクスの性質をある程度知っている。だから彼が嘘をつくとき、目を伏せて視線をそらす癖があることだってもちろん知っていた。
 だが今のフェリクスは、俺から視線をそらすことなく穏やかに笑っている。念のため横目で見たリルアの表情もけろりとしているので、これは本当だなと思いきり脱力した。

「そうそう、一応言っておくと親愛の意味は『好意や親しみの感情を抱くこと』、厚意の意味は『思いやりの気持ち』ですよ。
 何か誤解されているようですが、私はシスターコンプレックスでこそあれ……いえ、だからこそ、ですかね。リルアを幸せにしたいと思ってはいますが、恋人として、という意味でならそれは私の役目ではありません」

 それに、とフェリクスは笑顔のまま続ける。

「紅い瞳という縁で巡り逢い、義兄妹となった私たちです。恋人や友人とは違う、ですがそれよりもずっと近くて遠いこの関係が私は好きですよ。
 もしもリルアが私の『愛情』を望むなら、私はそれを叶えないわけにはいきませんが……それならきっと最初から、私たちは兄妹になどなっていなかったでしょうね」

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静海

小説を書くこととゲームで遊ぶことが趣味です。ファンタジーと悲恋と、人の姿をした人ではないものが好き。 ノベルゲームやイラスト、簡単な動画作成など色々やってきました。小説やゲームについての記事を書いていこうと思います。

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