からんころん、とドアベルが鳴る。
「リルア、このケーキはいかがですか」
「んー、今はいらない」
「ならプリンはどうです、甘いものはお好きでしょう?」
「もう、今は別にいいってばー。ボクにばっかり勧めてないで、お兄ちゃんも何か食べてよ」
「愛の前に空腹など無意味です! 私はあなたの笑顔が見られればそれで……!」
「……そろそろ注文していいか?」
並んで座ったくせに噛み合わぬ様子で、メニュー表を押し付け合う二人を眺め続けて早十分。平和な喧嘩の向かい側、俺とその隣、リルアの友人だという少年は注文ボタンを持て余していた。
俺のベッドを買いに出たのが午前十時ごろで、購入と搬送の手続きを終えたのが十二時過ぎだっただろうか。帰宅途中で「レイ」と名乗る動画編集ソフトと再会したリルアは、彼の頼みもあって近くの喫茶店へと向かい、今に至るというわけだ。
「ま、まさかリルア……あなたダイエットのつもりで……!?」
「違うよー! 確かにローレライは美しくなきゃいけないけど、ボクは食べても太らないから気にしないで」
「ならば余計に! です!
お金ならちゃんとありますから、あなたにはたくさん、好きなものや綺麗なもの、おいしいものに触れてほしいのですよ……!」
「パンケーキうめえ」
一方俺たちはやることもないので、結局注文したそれをもふもふと頬張っていた。
ふんわりとやわらかく、あたたかな甘みが蜂蜜と踊るさまはまさに至高。似合わないと知っているのに頬が緩んで、ふとこちらを見たリルアが目を見開く。
「……そんなにそれおいしい?」
「ああ、バニラアイスのせたやつも頼みそうなくらいにはうまい」
「レイくんはー?」
「あ、えっと、ええ、アクトさんの言う通りすごくおいしいですよ」
おどおどした様子のレイは、俺とフェリクスに気を使っているのか元からなのか、リルアに話しかけられたとき以外はほぼ無言である。彼もまた紅い瞳の持ち主であり、迫害対象となっていたことが原因なのだろうが、見ていて悲しくなるほどの怯えようだ。
「そっかそっか、ならよかった。
……ねえレイくん、最近は色々どう? 別に皮肉とかそういう意味じゃなくてさ」
「その件に関してはフェリクスさんが……えっと、僕たちに仕事を斡旋してくださったおかげで、それなりには」
「あれ、お兄ちゃんそんなことしてたの?」
「ええ。規術が使える方を中心に、私がリーダーとなってマルウェア駆除のお仕事を少し。
……ですからリルア、そろそろ私を押さえつけるのはやめていただけませんか……」
「あっごめん、つぶれてないよねお兄ちゃん……!?」
リルアに押されて変形気味だった顔をさすり、起き上がったフェリクスは「大丈夫ですよ」と椅子に座り直した。そうして向かいに座るレイへと、優しく微笑み手を伸ばす。
「よしよし、ですよレイさん。いつも本当に、あなたは頑張っていますね」
「あ、ボクもレイくん撫でたいな!」
「わ、お二人ともどうし……わああっ」
外見年齢は俺より三つほど下だろうか、青い髪を二人にかき乱されながらも嬉しそうなレイに胸が痛む。穏やかに悲しげに笑む彼もまた、俺には絶対に分からないであろう世界の無情さを知る者なのだ、と。
ぼんやり眺めたリルアたちはようやく、レイを解放して元通り席に着いた。
「そ、それでですね、先ほどお話がしたいと頼んだのには理由がありまして。
……いつもありがとうございます、フェリクスさん。フェリクスさんがいてくださって本当に、本当によかった」
「いえいえ。ですが私は自分が正しいと思ったことを信じ、その通りに行動しただけですよ。
むしろ迫害をなくすことが未だにできていないのですから、私はあなたに謝らなければいけないくらいです」
「でも、でも! フェリクスさんがお仕事をくださったから、僕たちは人並みの生活ができるようになったんですよ。いくら感謝してもしきれないほど、みんなフェリクスさんに感謝してるんです。
最近はその、多分疲労でフリーズを起こす方も増えましたし、僕は弱いからまともに戦えませんけど……いつか絶対強くなって、フェリクスさんに恩を返しますから!」
……ああ、やっぱりこういうのはまぶしいもんだな。
最初の怯えた表情はきれいさっぱり消えて、きらきらした目で語るレイに感嘆の息をついた。彼の言う疲労と俺のそれが同じだとしたら、色々とまずい気もするが──どうにも俺が口を出せる雰囲気ではなさそうだし、後でフェリクスにでも訊いてみようか。
「……アクトくんもそんな顔できるんだね」
「もが?」
そうして再びパンケーキを堪能していれば、唇をとがらせたリルアにつつかれて我に返る。彼女の言う「そんな顔」の意味を理解するまで、たっぷり数秒首をかしげたのは言うまでもない。
「そ、そりゃあ俺だって笑うときは笑うさ……これうまいし……」
「そっか、じゃあボクにも一切れちょうだい?」
「へ」
言うのが早いか動くが早いか、伸びてきたリルアの手が俺の手を掴む。ひやりと冷たいそれに縮み上がる暇すら与えず、彼女は俺が握っていたフォークへと顔を寄せて。
「ん、ほんとだおいしい……!」
例えるならばとろけるように、甘く優しく笑みを浮かべた。
「……お前ほんっと無頓着だよなあ……」
「えっ、そうかなー?」
レイとフェリクスが固まっていることも意識の外なのか、今度はリルアが首をかしげる。思えば俺をお姫様抱っこしたり、着替え中だった俺に出くわしても「気にしない」発言をしたりと男前すぎるだろこいつ。
「仮にも女性の姿で生きてるんだ、俺たち以外の前でそういうことはするなよ?」
「もちろんだよー、ボクだって見境なくこうしてるわけ、じゃ……」
「……リルア?」
言葉の途中で突如表情を引き締め、そわそわと辺りを見回すリルアに嫌な予感がした。彼女が何かを聞き取っているのだろうと息をひそめれば、ずん、と遠い衝撃が窓ガラスに響いたような気がして。
「……マルウェアか」
「悲鳴みたいなものも聞こえるから……多分。どうしようアクトくん、ボクには戦力になれるだけの特殊能力がないの……」
「大丈夫だ、お前が気にすることじゃない」
それがリルアに対するものではないことは分かりきっているが、こぼれた舌打ちにどのような意味があったのかを俺は知らない。ただ自分がひどく苛立っていることは感じ取れたし、うずまく歯がゆさに喉をかきむしりたくなったこともまた、はっきりと理解できた。
「おいフェリクス、放心してないで起きやがれ! こういうときこそお前らの出番だろうが!」
周りを動揺させぬよう、声を潜めつつも彼の脚を蹴る。俺とリルアが同じフォークを使ったことがよほどショックだったのか、その瞳に意思が戻るまでしばしの時間を要した。
「はっ……ま、マルウェアがどうしたのですか……!?」
「多分だが外で暴れてる! もう通報が行ってるしれんが仲間を集めてくれ、レイとリルアは俺と避難誘導だ!」
ぱちり、ぱちりと炎が爆ぜる。
「……は……?」
炎に包まれ、燃え上がるそれがどんな形をしていたのか、どんな声で話していたのか。髪の長さはどれくらいで、身に纏っていた服が何色だったのか。それらを全て鮮明に思い出せるのに、記憶の中のそれと目の前で燃えるものが一致しない。
「ふぇり……く、す……?」
わからない。
俺はついさっきまで、リルアたちと一緒に街のソフトウェアを避難させていたはずだ。
理解できない。
この世界の建造物は、その原理こそ明らかになっていないものの破壊不能である。だからこそ避難は比較的すぐに終わったし、微力ながらもフェリクスの手助けがしたくて俺は外に出た。
理解、したくない。
別件で出動しているというフェニックス隊員を呼ぶのは諦め、フェリクスは一人マルウェアの気を引いていた。宙に漂い炎を放つそれに負けじと、彼もまた炎の翼で飛び上がっていったのは記憶に新しい。
それがどうして、こんなことになっているんだ?
静謐な石畳の上に落ちた彼の体は、今や目をそらすことも忘れるほど激しく燃えていた。ゆらゆら揺れる熱気が俺の頬まで届いて、こみ上げる吐き気が焦げ臭さから来ているのか、彼の死という事実から来ているのかすら分からなくなる。
「あ、あ……あ、ああ」
膝が笑って両手が震え、消えぬ炎をただ見つめ。宙に浮かんだまま俺たちを見下ろす、少年の姿をしたマルウェアを力なく睨みつけた。
「よく、も」
ぎちり、と首元から鈍い音がした。
置いてきたリルアから離れていくにつれ、いつか首輪と称されたそれが俺の意識を断ち切ろうとする。それにフェリクスが勝てなかったくらいだ、今の俺がどうこうできるような敵ではない。
けれどいっそのこと、ここで砕け散ってもいいと思った。
フェリクスがこうなってしまった以上、俺はリルアに二度と顔向けできないだろう。足りないピースが一つはまるように、今更気付いた二人の重み。それらを失うことが今の俺にとって、死と同義であることにどうして気付けなかったのかと。
「馬鹿野郎……ッ!」
「……あなたに馬鹿とは言われたくありませんね」
自責の叫びに返るはしかし、耳慣れぬ高い声だった。
「……はっ……?」
燃え尽きた彼のいた場所に、いつの間にか積み上がっていた灰の山。俺の耳さえおかしくなければ今、その中から声がしたように思えたのだが。
「まったく……私としたことが迂闊でした」
ざらり、と。
突如崩れ去った山の中から、現れたのは華奢な少年が一人。ぱたぱた灰をはらい落として、凛と立つその背中には見覚えがある。
とはいえ彼は随分と小柄で、深紅の髪はそう長くない。身に纏う軍服もどきは「彼」のものとデザインこそ同じだが数サイズ小さくなっているし、これではまるでフェリクスをそのまま幼くしたような──
そう、か。
「お前、っ」
「詳しい話は後にしましょう。このままではあなたまで燃えてしまいますよ」
言うなりこちらを振り返り、俺を見上げる瞳は深紅。幼くはあるがどこか見慣れた、美しき少年がそこにいた。
「ですがそのようなこと──この私が許しませんが、ね!」
肩越しの笑みを俺に向け、俺をぶわりと包んだのは彼の翼だろうか。炎でできているはずなのに不思議と熱くはなく、触れたところでふわふわと柔らかいだけのそれ。
けれど僅かな間も置かず、翼の外で何かが爆ぜたのははっきりと分かった。さすがに音は防げないらしく、俺の鼓膜をダイレクトに叩いた爆音に耳を塞ぐ。
「……大丈夫ですか」
「な、にをした……?」
「何を、と言われましても簡単なことですよ。
私が地面に落ちてから、攻撃が来なかったのは渾身の一撃を放つためのパワーチャージ期間だったようでして。今まさに放たれようとしていたその火炎球を、マルウェアもろとも撃ち抜きました」
そうして翼が宙空に散る。途端吹きつける風の冷たさに震え、視線を上げたその刹那。
俺は地面に転がった「それ」に気が付いてしまった。
「セキュリティスキャンの結果、過去に遭遇したマルウェアとあなたの型が一致しました」
伸ばされた彼の右手から、炎が吹き出し剣を形成する。
「危険度は『中』、発病機能を持つ好戦的なコンピューターウイルスと断定」
靴音高く響かせて、歩み寄るその足取りに迷いはなかった。
「よって、私はあなたを殲滅対象とし」
音もなく剣を構える。
「今ここで跡形もなく、滅することを宣言します」
「待っ……!」
「……どうしてですか、アクト?」
正確に腹を撃ち抜かれ、地面に倒れたマルウェアの目はすでに死を見つめていた。もちろん助けるつもりはないし、助けられる気もしないのに俺は今、何を口走ったのだろうか。
「なん、で……だろうな……?」
硬く冷たいフェリクスの声に、俺の思考を占めていた熱が急速に冷めていくのを感じた。
「……襲い来るマルウェアからこのパソコンを守るのが、私の存在理由であり正義です。たとえそれらが幼い姿をしていようと、涙ながらの命乞いをしようと……そこに手加減や情けというものは存在しません。
存在しては、いけないものなのです」
鋭く言い切る彼の瞳にあったのは悲しみなのか苦しみなのか、あるいは無色の虚無だったのか。今度こそと振り下ろされる刃を止める理由など、俺には残されていなかった。
「次はまっとうなソフトウェアとして、笑顔で会いたいものですね」
声にならない絶叫が、響く。