いつになく寒い夜だった。
もうすぐ春とはいうものの、やはり夜中の空は冷たい。顔をうずめるように巻いたマフラーを引き上げ、俺は眼下の町並みに目をやる。
時は大方午後十時過ぎ。既に明かりの消えた家もあればまだ消えない家、今まさに点灯した家と様々だ。俺も放っておかれればいつまでも寝るタイプだから、今の生活はそれなりに健康的でいいのかもしれないな、なんて。
意識せぬまま微笑んでいる自分に気付いて、慌てて表情を引き締めることとなった。
「……なんなんだよもう……」
今日のマルウェア襲撃事件といい今といい、俺もすっかり毒されたのだと自覚するのはむずがゆくて仕方ない。彼女たちのことは忘れて夜の空を楽しむのだと、意気込んでいた俺はどこに行ってしまったのだろう。
「はー……」
溜め息をつけば白く流れて、鼻の頭が少し痛んだ。吸い込む空気はちくちくと肺の底を刺すし、見上げた月と星はいつもより近い。
「月と星、ねえ」
いつもは疑問など抱かず、ただなんとなく眺めていたそれは果たして、この世界のどこに浮かんでいるのだろうと今更ながら思う。この世界は俺たちの体と同じように、かなりの完成度で「外」の世界の見てくれや摂理を再現しているが宇宙までは対象外だろう。
「マスターは嘘をつかないけど、たまに間違えることはあったなあ」
マスターに入力された情報以外に、インターネットから得た知識を自らのものとするソフトウェアは多い。かくいう俺もそのうちの一つで、最初こそ情報の取捨選択に苦労したものの、今ではそれなりに「外」のことも知っているつもりだ。
だが、それが必ずしもいい結果を生み出すとは限らないことを今日、知った。
俺たちに幼少期というものは存在しない。つまりこの世界において、「相手は幼いのだから優しく」なんて人間のような考えは不要。もしそんなことを当たり前としてしまえば、幼い姿のマルウェアに無自覚のまま手加減をしてしまい負ける──なんてこともありえるのだ。 とはいえさすがに、自分自身が命のやり取りをしているときに手加減をしようなどとは無意識にも思わない。問題は今日の昼間のように、他者がマルウェアにトドメをさそうとした瞬間だろう。
「待て、なんて言いそうになっちまったもんな」
幼い姿が地面に転がり、ぜえぜえと肩で息をする。その腹には大穴が開いている上、光の消えた目は流れ出る血のように濁って。
いくら俺が人間に憧れ、そうなりたいと願っても世界が違うことくらい分かっていたつもりだ。それだというのに俺は今日、マルウェアのことを「可哀想だ」と思ってしまった。
制作に携わった人間に悪意があったかどうかで、俺たちの価値は百八十度変わる。もちろんあの少年がフェリクスを傷つけたことは絶対に許せないのに、俺はあの少年をかばおうとしてしまった。
「……人間って、ほんとどこからどこまでの生物なんだろうな」
溜め息と共に取り出したチョーカーは、なぜかその力の全てを失っている。星を見ようと身を乗り出しすぎて、窓から転げ落ちたときは肝が冷えたものだが──どうして今、その拘束力が失われているのか。過ぎたことはもう変わらないのだから、今俺が悩むべき問題はこちらだろうと無理やり思考を切り替えた。
最初こそそんな余裕もなかったが、落ち着いて見ればきれいなチョーカーではないか。リルアの瞳を思わせる紅い石が夜空を透かして、星々をそっと染め上げる。
こんなことならリルアの様子を見てから来ればよかった。彼女が何らかの状態にあることで、チョーカーの力が失われるなら利用するほかないだろうに。
とはいえ下手に覗きこみ、彼女に見つかることだけはどうしても避けたかった。覗き野郎のレッテルをはられてしまえばフェリクスからの風当たりも強くなるだろうし、おそらくまだ続くであろう同居生活の空気を悪くしたくなかった、というのも理由の一つではある。
だから俺は空を飛んだ。自由に規術を使えることが、一人になれることが嬉しいと思う反面寂しくも感じてしまう辺り、もはや答えが出ているも同然ではあったのだが。
頭の整理がしたかった、ただそれだけのはずだった。
「……おい……なんでこんなときに……!」
はるか遠くの夜空から、長い金髪なびかせて。簡素なワンピースに身を包んだ、紅い瞳の少女がこちらに飛び来るのを見つけてしまうまでは。
「武器の類……は落としたらまずいし持ってない、となると規術しか使えない……
逃げようにも飛行スピードはあっちの方が速い、ってことは……そういうことだよな……!」
動きを止めて考えろ、今の状況に最適な規術はどれだ。街に何かが落ちかねない術は全てアウトだとすると、こちらが取れる行動もかなり限られてくる。
その上ここがいくらリルアの家から離れていても、上空でドンパチやれば確実に誰かの目に留まる。そうなれば俺の拘束はより強固なものになってしまうだろうが、逃げるという選択肢は元よりないも同じだ。
まったくもって面倒なことになった。パソコン内のマルウェア絶滅を疑うほど平和だった時期と比べれば、ここ最近の遭遇率は異常の一言に尽きるだろう。
「情けないもんだな俺! これだからマルウェアは嫌いなんだよ!」
覚悟を決めろノベリスト、マルウェア相手に戦い方など気にする必要はないのだ。今この世界に最善策が存在しないなら、それをつくり上げてしまうのが俺の仕事だろう!
「なら──ッ!?」
ふひゅんと風を切り裂いて、のけぞった俺の鼻先を眩さと焦げ臭さがかすめた。彼女はどうやら稲妻を操るらしい、と解析する暇すら惜しみ、体勢を立て直そうとした直後。
突如目の前に現れた「それ」に、焦点を合わせることすらできなかった。
「あ、があァっ!」
思考回路すら焼きつくすように、駆け抜けたものは痛みか熱か。帯電する腕で抱き締められて、俺の体をばちばちと這うものに絶叫する。
「あああああッぐ、はな、れろっ……!」
一瞬気絶していたようで、解除されていた飛行術を取り戻すまでかなりの距離を落下した。荒れる呼吸と心臓をなだめ、見つめた彼女の無表情さに鳥肌が立つ。
再び抱きついてこない辺り遊ばれているのか、あるいは力をチャージしているのか。どちらにせよ長期戦は危険だが、今の動きからして下手な術ではかわされてしまうだろう。
……ここまで来たらもう、誰かに見つからないように、という考えは捨てざるを得ないようだ。
互いに無言の時が流れた。身を切るような風の中でしばし見つめ合う。
その後少女が動いたのは、果たしてどれほどの時が経ってからだったか。
その体がブレて見えた、と思うときにはもうそこにいない。分かっている。
だからこそ、唱えるのだ。
「捕らえるは檻、同化するは闇」
時折霞む意識の中で、けれど言葉を紡ぐ唇は止まらない。空をふわりと抱くように、あるいは抱擁を待つように伸ばした腕の中へ、彼女の姿が現れる。
「漆黒の手で全てを喰らう、暴食の王に捧ぐ贄」
だが、そこでようやく少女は気付くのだ。俺が広げた腕の中には「闇」があることと、自らの足を絡め取ったものの存在に。
「我が身を襲う災厄を、染め上げ喰らい糧とせよ!」
──そして放たれたものの正体を、少なくとも俺は知らない。
がぱり、と夜の闇が口を開けた。そうとしか表現しようがない。
その腕に宿る雷に照らされ、彼女の髪が神々しくきらめく。けれどその光すら喰らうように、朽ちた壁をツタが這い上がるように、闇の侵食は胴体や腕を通り、頭まで到達する。
星空を歪め、開かれたその「口」はこともなげに少女を引き寄せていった。趣味が悪いことにゆっくりとゆっくりと、存在するかも分からない彼女の恐怖をあおっているというのか。
闇の口へと巻き込まれぬよう、月光を背負った俺の姿が少女の目にどう映ったのかは知らない。果てのない無表情のまま、しかし懸命に雷を放って抵抗する姿がほんの一瞬だけ、こちらを見たのは気のせいであってほしかったから。
マルウェアは言葉を話すだけの知能を持たず、感情もあるかないか分からないほど希薄で。それでも消えたくないという意思はあるのだろう、抗う細腕から目をそらしかけた瞬間。
闇の侵食が完全に、彼女を覆い固めるのを見てしまった。
もがくことをやめた少女に飽きたのか、闇の口は少女を呑み込んでじわり、と元の星空に溶けた。ほぼ同時に俺を襲ったひどい気だるさが、一瞬にして俺の思考を塗りつぶし──
暗転する。
「ボクは怒ってるんだよ、アクトくん」
「……はい」
「だから今キミに背筋運動五十回を強いたの。分かる?」
「はい……」
びきびきと痛む背中をさすり、見上げたリルアの笑顔が怖い。フェリクスそっくりに頬をふくらませて、俺を睨む姿にどうでもいい既視感を覚える。
──それは俺にあてがわれた一室、俺の不在時に届いたのだというベッドの上。俺は全力でうなだれるふりをしながら、嵐の過ぎる時をじっと待っていた。
いやまあ、怒ってるからって背筋運動を強いる理由はよく分からないけども。ここで余計なことを言えば説教が長引くのは目に見えているし、素直に謝っておくのが正解だろう。
「キミが気絶してる間に直してもらったけどさ、結構な怪我だったんだから迂闊なことは禁止だからね。次にやったら何が起こるか、気になるならやってもいいけど。
……あと、もう分かっちゃっただろうから言うけど……そのチョーカーには確かに、キミを拘束する力がある。けどそれはボクが起きている間限定のもので、『命令』に関しては、ボクがキミに意識を集中させ続けていないと使えない力なの」
「なるほど……」
「ついでに言うとね、『ローレライ』はそういった力を増幅させるだけでそのものではないの。だから、意思を持って動くものを操るには二つ必要なものがあるよ。
一つ目はさっきも言った『集中力』。もちろん集中が途切れれば力も途切れるし、相手が自分より強く抗う意思を持てば操ることはできない。
そして二つ目は『自分の力を相手に通すための媒体』。でもこれは相手に直接触れるか、どうにかして相手に力を注ぎ込むことができれば必要ないよ」
「つまりこのチョーカーが媒体ってことか」
頷きながら触れたチョーカーは、寝ている間につけ直されたらしく変わらず俺の首元にあった。それなのにどうしてか愛着がわいてしまったようで、あまり外したいと思わなくなったのはリルアの力が影響しているからなのだろうか。
「そうそう、だからまあ……それじゃあチョーカーの意味がないだろ、って思うだろうけどさ。
……絶対にマルウェアと戦わない、強力な術は使わないって約束してくれるなら、ボクが寝てる間はお散歩くらいしてても、いいから」
眉を下げ、うつむくリルアの目の下にはうっすらとくまが浮いていた。
「でもさ、これだけは分かって。ボクもお兄ちゃんもキミのことが大事なんだよ、キミがもしいなくなったらすごく悲しいし、それに──」
「リルア」
「……何かな」
少々言い方を間違えただろうか、叱るような声が落ちてしまったことに眉をしかめた。だがリルアはそれを「うっとうしく思われた」とでも思ったらしく。
申し訳なさそうに俺を見つめる彼女を、気付いたときには抱き寄せていた。
「ありがとう、ごめんな」
なめらかな銀髪をそっと撫でて、極力優しく囁きかける。
最初は無理やり従わされて、いいように使われるのだとばかり思っていた。けれど裏を返せば俺のことを思い、俺を危険から遠ざけようと苦労してくれていたのだ。
「寝不足なんだろ、せっかく可愛い顔してるんだからくまなんて似合わねえぞ。
それに治療もしてくれたんだろ? 昨日のは結構深手だったって自分でも分かるけど……今は背筋以外全然つらくないしな。
ありがとう、色々ほんとごめん」
「……キミもそんなこと言えるんだね……」
「な、それどういう意味だよ……!」
「どういう意味もこういう意味もないよ……ボクはともかくお兄ちゃんはさ、忙しいお仕事の合間をぬってキミのそばにいてあげてたんだよ?
ボクを評価するならまずお兄ちゃんを評価してね。ボクは昨日ちょっとしか寝てない程度だから……でもまあ、お礼を言われるのは悪くないかな。
こっちこそありがと、アクトくん」
俺の背にそっと腕を回し、甘えるように顔をすり寄せる。なだらかに上がる心拍数には気付かれただろうか、もしそうだったら俺はどうすればいい?
「……ね、アクトくん」
「な、んだよ……」
「でも決まりは決まりだから、今日はお兄ちゃんからの説教も受けてきてね」
「……はい?」
かなり間抜けな声がこぼれた。
「お兄ちゃんは今、緊急の用事ができたからって本部にいるとこだよー。ボクもついて行ってあげるから、逃げようとか思わないでよね?」
「は、はあ」
数秒前までの切なげな表情はどこへやら、「それじゃあ行こうか」と俺の手を引く彼女は既にいつもの笑顔だった。もちろん何かを期待していたわけではないが、慣れていないのをいいことに弄ばれた気しかしないな、と。
彼女が魔性の妖女であることを今更実感しながら、俺はまだ熱い頭をぶんぶんと振った。