ノベリスト・シンドローム【10】

 世界が産声を上げる瞬間ほど、ワープロソフトとして好きなときはなかった。

 自分の上に世界が広がる。音のきらめきや語られる色、奏でられる風に脈動する大地が確かに、俺の存在があってこそ表現される。

 嬉しかったのだ。自分を必要としてもらえることが。
 幸せだったのだ。うつり変わって様々な輝きを見せる、鮮やかな物語を綴ってもらえることが。
 誇らしかったのだ。俺の「マスター」にしかつくれない、唯一無二の世界を任せてもらえることが。

 そんな日々を夢のようだったと振り返るたび、夢という表現が例えでもなんでもなく、本当に夢だったのではないかと疑ってしまうことも増えた。

「いて、ッ」

 だがどちらにせよ、右足首の痛みだけが声高に主張する。
 今俺がいるこの世界は、間違いなく俺たちの「現実」そのものだと。

「っ、う、あ」

 転んだ拍子にひねったことは知っていたが、どうやらよほどひねり方が悪かったらしい。立ち上がろうとしても力が入らないまま、俺は地面に突っ伏した。

「……おれ、俺……なんで、ますた、マスター……」

 肩を震わせむせび泣くように、何よりも大切だったはずのヒトを呼ぶ。俺たちはマスターに使ってもらえて初めて、自分が「生きている」と実感することができたしそれが存在理由でもあった。
 それが今ではどうなっている? 使われることが生というなら、起動すらされなくなれば死んでいるのか。がりりと大地をひっかく爪に、土が入って黒く汚れる。

「マスター……ますたー……!」

 まだ肌寒い夜の中、辺りは一面真っ暗だ。脈に合わせてずきずきと痛む足首は、きっとしばしの安静を要するだろう。

 ……目まいが、する。

 家を飛び出す直前に、フェリクスが口にした言葉を反芻する。距離も方向もめちゃくちゃに走って、それなりの時を過ごしたはずなのにどうしても、彼の声が耳から離れようとしない。


「マスターが入力した情報により、ソフトウェアが体と基礎知識、感情を得るこの世界。あなたは私の知るソフトウェアの中で唯一、直接『言葉』を与えられた存在です」


 できることなら聞きたくはなかった。無知で愚かなノベリストは、真実の物語を綴れなくてもそれでよかったのだ。


「これは以前も言った上、あなたも既に分かっていたことかもしれませんが──改めて今、明らかにしましょうか」


 どうしてあんな顔をする? 苦しいような悲しいような、決して楽しくも嬉しくもない表情になるくらいなら──言わないで、ほしかったのに。
 続く言葉が死刑宣告にも似たものだと、知っているからもがきたかった。これはギロチンに固定された頭部と胴体が別れを告げるまでに、辞世の一つでも残したい気持ちと同じ感情なのだろうか。


「あなたが与えられた言葉の中には、『プログラムされた人格は主を盲目的に愛する』という内容の文章がありましたよね?」


 つくりものだったというのか、全て。
 俺の存在は、想いは、涙は、俺の意思とは関係なしに埋め込まれていた「思い込み」の上に成り立っていた? マスターは「マスター」ではなくてもよかった? 俺が「アクト」や「ノベリスト」である必要はなかった?

「なんで……なんでっ……!」

 他に代わりがいる物語なんて望んでいなかった。俺が俺でマスターがマスターだからこそ、俺はマスターに惹かれたのだと思っていたのに。

「マス──」

 ざり、と。

 そのとき響いた足音に、俺の叫びは途切れて消える。誰かが近くに来たという事実だけで、頭の中が急速に冷めるようだった。
 慌てて涙をぬぐい取り、立ち上がろうとしても足が動かない。先ほどよりも濃度を増した闇の中、寒気を感じたのは気温のせいなのか、あるいは。

「すみませ、俺、足が、っ……!」

 突如目の前に現れた、紅い瞳の異形のせいか。
 上げかけた声が凍りつく。差し伸べられる手が救いであるとは限らないことを、半ば本能的に悟ったときにはもう。
 俺の意識はいともたやすく、無明の闇に突き落とされた。



 物語の結末は「主人公」が誰であるかで、その良し悪しが大きく左右される。

 主人公にとって「いい終わり方」であればそれはハッピーエンドとなるが、その幸せのためにどれほどの人が涙を流したのか、命を散らしたのかはあまり重要視されない。

 いっそのこと「今の自分が幸せなら、他人の不幸話に興味などない」と切り捨ててもらえれば抗う気も起きたが──どうやらそれは、今の俺には当てはまらない話らしい。

「……ふ、ぐッ」

 開くことのできない目と口は、おそらく何かで封じられている。その上手足も思うように動かないところを見ると、これはほぼほぼ確実に。

 捕まった。

 しばらく気絶していたようで、唐突に途切れた記憶と今の状況が一致しない。吹きつける風を感じない辺りここは室内か、あるいは何かに包まれているのか。それ以外にもここはどこで、捕まってからどれほどの時が経ったのかも分からないのだからお手上げである。

 こういうときこそ心を強く持ち、助けを待つのが最善手だろうと分かっていても不安は残る。マスターを亡くしてからのロスタイムは、後日談はこんなところで終わるのか、と思ってしまうだけでもう駄目だった。

 案外あっけないものだったな、と胸中に広がる黒い諦念。吐き気にも似たそれが微かな希望を侵食するたび、思い出すのは人魚姫の話だ。
 泡になって消えるばかりとなった彼女は、いったい何を考えたのだろう。もしも「人魚姫」の主人公が王子だったとしたら、彼の物語はとても幸せなものとして幕を閉じただろうに。

 口を封じられている以上規術は使えない、それだけでまず難易度は高すぎるほどだ。もしも規術が使えたとしても、下手に蹴散らそうものなら俺はもちろん、他の誰かに危険が及ぶ可能性もある。

 ……俺が死んだら、リルアたちは悲しんでくれるだろうか。

 自らの体を構築するデータを全て失った場合、「フェニックス」などの例外を除き、ほとんどのソフトウェアはヒトの姿を保てなくなる。
 器であるソフトウェア自体はそのまま残る上、早い段階で復元することができればそのままの姿で戻ってくるため、ある意味人間よりは死のリスクから縁遠いものの──復元が間に合わず、データが全て消えてしまった場合は当然復活できない。

 万が一にもそうなれば、マスターが再び同じソフトウェアで作品をつくり上げない限り、そのソフトウェアは「ただのソフトウェア」に戻るだけ戻って終わりである。

 その上、新しく入力されるデータが消滅する前のものを完全再現しない限り、この世界に現れるのは別の姿と別の人格を持った「同名の別人」になる。
 もちろん作者が同じなら、思考原理などの細かい部分は似てくるだろう。それでも同じ存在が現れることは二度とないのだから、それが俺たちにとっての「死」となるのは明白だ。

 しかもそれは、マスターが今もパソコンを使っている前提の話なのだから救いようがない。一度失われてしまえば二度目はないのだという重みが、今の俺にはひどく苦痛に感じられた。

 ああ、きっと人魚姫だって消えたくはなかっただろう。きっと王子と結ばれたかっただろう。それなのに自分の命より、愛した者が幸せになることを優先するなど。
 決して俺には真似できない、その透明さはどこから来るのだろう。

 性別からして俺は姫ではないから、何も知らないままだった王子だろうか。「おうじさまはあわになってきえてしまいました」というマスターの文章を思い出して、その皮肉さに苦笑した。

 しかし。

 俺はこの瞬間まで知らなかったのだ。意識が途切れる寸前に、垣間見た異形がどのようなマルウェアであったかを。

「……ッ!?」

 それはあくまで唐突に、そしてどこまでも急速な変化だった。
 いつの間にか自由になっていた右手で、目と口を拘束していたものをちぎり取る。ぶちぶちと音がするたびに何か、その黒いものを吸収しているような気もしたが構ってなどいられない。

 ……否、構うことが「できなかった」のだ。

「へえ、これが──ねえ」

 開かれた視界は相変わらず暗く、ここが球体の中だということだけがかろうじて判断できた。不安定な足元のせいでうまく立ち上がることができないものの、今の俺が最も危機感を抱く脅威は「それ」ではない。

「ふーん、あんた『ノベリスト』っていうんだ? つまりはただの小説家?」

 俺の体が何一つ、「俺」の意思に従おうとしない。

「あちゃー、ちょい間違えたなこりゃ。まあ仕方ないかねー」

 俺の意思とは無関係に、俺の声で笑う「オレ」の正体が分かっているだけに余計震えた。一切の自由を奪われてしまった俺はただ、ぺらぺらと話し続ける「オレ」の言葉を聞くことしかできない。

「まあいいや、これでようやくオレも話せるし自由に動けるってわけだ。あんたらの体って動きやすくていいな、ちょい足が痛いけど!
 おおっと? そういえばオレのことは善人と書いて『ゼント』って呼んでくれな。話すことなんて一生ないだろうけど気分気分!」

 俺の名前が「アクト」──無理やり漢字にすれば悪人であることとかけているのだろうか。そうだろうとは思っていたが、こちらの思考や記憶は全て読まれてしまっているようだ。

「んん? 何抵抗しようとしてるんだよ。オレとあんたは二心同体、これからずっと一緒なんだから受け入れろって。
 と、いうわけで……これからよろしくな、『相棒』?」

 ふざけるなよ。

 何が善人だ、何が相棒だ。いくらこの身への感染を許してしまったとはいえ、それは俺の意思ではないことくらい明らかだろう。それを二心同体とはどの口が言うのか、自分の体だということを差し引いても引き裂いてやりたいくらいだった。

「おーこわ、そんなに怒らなくたっていいだろー?
 暗いのが不満なら出してやるからさ、ほら」

 言葉と共に取り出された剣が、どれほど重いのかすら伝わりもしない。
 けれど宙に描かれた一条の軌跡が、一瞬にして「外」の鮮やかさを語った。

 ──はじけた黒が散るにつれ、この場所がかなりの高所であることを知る。さすがに山々を見下ろすほどではないにしろ、ここから落ちれば死を免れることはできないだろう。
 だが、そんな危機感やゼントへの怒りすら押しのけてしまうほど、世界は広く美しかった。
 芽吹き出した草木の緑が、枯れた大地を染め始めている。青く晴れ渡る空の下、遠くの街並みはキラキラと輝くように各々の色を、個性を主張する。
 世界はそこに在るだけだ。そこに美しくあろうとする意思などないだろうし、きらめく水面のようにどこまでも透明であるべきものだろう。
 それだというのにこの色彩は、風の声は、一つが狂えば全てが狂う繊細さと美を兼ね備えている。五感が全て働いていたなら、これが更に美麗なものだったのかと思うだけで口惜しい。

 ここが何者かによってつくられた世界であることなど、俺にはもはや些細なことだった。たとえ人工のものであろうと今、俺の目に映る全ては本物だ。

「機嫌は戻ったかー相棒、暗いのが怖いなら言ってくれればよかったのに」

 ……お蔭さまで元通りだよ、悪い方にな。

 ほんの数秒前までひどく感動していた分、こいつの全てが俺を余計逆撫でしていることに気付けないのだろうか。それともこれはゼントなりの挑発で、俺はそれに乗せられているだけ?

「そうそう、ここで自己紹介くらいしておこっか。
 オレの名前は今決めた通りゼント。あんたらのだいっきらいなコンピューターウイルスやってます! 自己伝染機能っていう能力で乗っ取りが得意!」

 真正の馬鹿か策士かは知らない。だが唯一残った足場の上、ダンスでもするようにステップを踏んだのは心底馬鹿な行動だと、あきれながらも思ったときにはもう。

 深く考えるまでもなく、がくんと視界が一段落ちた。

「おっ──と!」

 バランスを立て直すことすらせず、ゼントは落下を受け入れる。おそらくは共有を切られたのだろうが、耳元でうなる風の音が数秒ほど途切れた、と思えば。

「へっへー、オレってば大天才だな!」

 この身を宙に留めたそれは間違いなく──以前の俺が使っていた飛行術だった。

「驚いてる? 驚いてる?
 オレが覗けるのはあんたの記憶と思考だけじゃなくて、残念ながら知識もなんだよなー! 記憶を多少あさった程度じゃ、この規術ってやつは使いにくかったから失敬失敬!」

 それはお前の才能じゃなくて俺の実力だ、と言いたくても声は出なかった。随分とお調子者らしい彼の言動に、自由にならない我が身に、積もりゆくストレスで発狂しそうになる。

 だが、その冷水はごく唐突に烈火へと注いだ。

「……へえ」

 一部が焦げた草原を見下ろし、かすれた声がざらりと落ちる。

「あれがリルアってやつ……と、今は少年姿の……そうそう、フェリクスってやつだな?」

 心臓を握り締められたような恐怖が、俺の思考を一瞬止めた。
 俺の瞳が見つめる先に、きょろきょろと辺りを見回す二人の姿がある。さすがに俺が飛んでいることは想定していないのだろう、それなりの高度を漂っていることもあって俺の存在に気付いてはいないようだ。

「どうした相棒、なんでオレが前髪をいじってるか知りたい?
 はは、そんなのおめかしに決まってるじゃん?」

 長い前髪で目元を隠し、くつくつ笑う彼が何をするつもりなのか。それを知るのがあと数秒、もっと言うならあと一瞬早ければ、何かが変わっていたのだろうか。

「そんじゃ、行きますかね!」

 やめろと叫ぶことすらも、今の俺にはかなわなかった。

「アクトくん!?」
「アクト!」

 ふわりと地面に降り立った「俺」の姿に、慌てて二人が駆け寄ってくる。目元が隠れているせいで視界は悪いものの、心配したんだよとかけられる声はどまでも優しかった。

 しかし今、そこにいる「俺」は「アクト」ではない。気付いてくれよと念じる俺の願いもむなしく、無言だったゼントは重い口を開いた。

「なあリルア、フェリクス」

 前髪を手でかき上げる。

「おそろい、だな?」

 果実の潰れるような音がして、一瞬だけ意識が飛んだような気がする。

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静海

小説を書くこととゲームで遊ぶことが趣味です。ファンタジーと悲恋と、人の姿をした人ではないものが好き。 ノベルゲームやイラスト、簡単な動画作成など色々やってきました。小説やゲームについての記事を書いていこうと思います。

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