慌てたように呼び止められて、腕を掴まれるまで「それ」が自分の名前だと気付くことができなかった。
「だ、大丈夫ですかアクトさん……?」
穏やかな午後の街並みで、紅い瞳が不安げに揺れる。掴まれた左腕にぼんやりと視線を落とせば、彼──レイは少女のような声で「お久しぶりです」と笑った。
「……すまねえな、少しぼーっとしてたみたいだ」
「いえ、その、気にしないでください。僕も最初はアクトさんだとは思わなくて」
「はは、まあ仕方ないさ」
長かった髪を切りそろえ、春の陽気にはそぐわないマントを身に着けていれば大分印象も変わるだろう。似合っていないと知りつつも、俺はもうこのマントを手放すことはできない。
「それで、俺に何か用か?」
「あっ、はい。アクトさんに届けてほしい、と頼まれていたものがありまして」
「……俺に? 誰からだ?」
今は配送業の手伝いでもしているのだろう、荷物をごそごそとあさるレイに首をかしげる。わざわざ荷物を送ってくるような知り合いに心当たりはない上、今日が何かの記念日というわけでもない。
「リルアさんから……っひ、す、すみません! ぼぼ僕、何か悪いことをしたでしょうか!
何も分からないグズですみません、すみませんすみません殴らないで……!」
「ち、違う! 怒ってないし殴らないから頭を下げるな、少し落ち着け……!」
突如出てきた彼女の名前に、気が付けば眉を寄せていた。それで機嫌を損ねたとでも思われたのだろう、慌てて顔を上げさせる。
「いいか、俺はお前を殴らないから怯えないでくれ。怒るときは何が悪かったのかちゃんと言うし、理不尽なことはしないから謝るな。お前は何も悪くないよ」
「うぅ……すみません……」
「ほら、また謝ってる。笑ってくれれば俺も嬉しいし、お前には笑顔の方が似合うよ。だからすぐには無理でも、まずは俺に謝る回数から少なくしていこうな」
頭を撫でてやりながら、ようやく笑ってくれたレイに笑みを返す。荷物を受け取るために手を離せば、切なげな顔で俺を見上げた。
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして、こっちこそありがとうな。
……だがよく分からねえな、どうしてリルアが俺に荷物を?」
「それが……その、少し前に頼まれたんです。
僕は動画編集ソフトだから、その力を借りたいんだ、って。フェリクスさんには先に見てもらったから、彼のゴーサインが出たらこれをアクトさんに渡してほしい、って」
彼が取り出した袋の中、紅い光がぼんやりと透けて見えた。どうやらそれはリンゴ大の宝珠らしく、袋越しでも薄く明滅しているのが分かる。
「詳しくはこれに直接触れて、か、確認してください。できれば人のいないところがいいと思います、えっと、僕からこれ以上は言えませんが、その……
できればリルアさんのこと、嫌わないであげてください」
手渡された袋とレイを交互に見つめ、頷けば彼は頭を下げる。だがその拍子に肩掛け鞄を落とす辺り、まだまだ先は長そうだ。
「……仕事はどうだ、ちゃんとしたところで働けてるか?」
「は、はい。おかげさまで」
「そうか、ならよかった。
それじゃあ俺は行くよ、お前も──」
「……フェリクスさんのことを、恨んでいるひとなんていません」
踵を返した足が止まる。
「みんなみんな、同じなんです。ぼ、僕だってフェリクスさんと同じ立場だったら、同じことをしていたと思います。
今回はたまたま裏目に出てしまったけど、これは『誰が悪い』という問題じゃなくて……だ、誰も悪くはないんです。
ただ偶然、マルウェアの目が紅かったから。僕たちが紅い目を持って生まれてしまったから。マルウェアがとても恐ろしいもので、それを怖がる人が多かったから。そんな偶然が重なったからこそ、僕たちは、えっと……疎まれて、生きてきました」
振り返った先にいたレイの瞳は、いつか見たリルアのそれともフェリクスのそれとも、同じようでいて違う覚悟を宿していた。
「でも、でも! もしフェリクスさんが僕たちに救いの手を差し伸べてくれなかったら、多分、僕たちはもうここにいないはずなんです。
まだ生きてるだけで充分って、皆さんちゃんと笑ってました。もちろん欠けてしまったパーツや感情は戻らないけど、僕たちは、その、外部からのあったかさを知らずに、身を寄せ合って生きてたんです」
リルアのそれが伝える覚悟なら、フェリクスのそれは戦う覚悟だろう。そして今、必死に思考を巡らせて、ぎゅっと手を組むレイのそれは「言葉にする覚悟」だろうか。
「嬉しかった、です。差し伸べられる手があったかいことを、僕は初めて知りました。
凍え続けて氷になった僕たちの手は、そのぬくもりで少し溶けてしまったけど。本当に本当に、う、嬉しかったんです。
……もしかしたら僕自身に実害がなくて、ただ前よりもいい暮らしができるようになった身だから、僕はこんなことが言えるのかもしれません。フェリクスさんも責任を感じているのか、最近は全然顔を出してくれませんし。
でも、でも僕は、少なくとも僕は! とっても嬉しかったし感謝してるって、どうかフェリクスさんに伝えては、くれませんか……!」
うっすら涙すら浮かべて、息を切らして言う彼に、胸の奥が途方もなく震えた。こんなにも純粋で拙く、けれど尊いものが他にあるだろうか。
「……アクト、さん?」
ちょうど人通りの絶えた街中、歩み寄った先の彼を。強く強く抱き締めること以外、何もできそうにないほど──言葉が、見つからなかった。
「あ、アクト、さん」
だが、恐怖に震える声が耳元に落ちて、俺は少しだけその行動を後悔する。
「う、でが」
「……ごめんな」
俺の右腕は決別の代償として、肩口から先を失っていた。
「怖がらせるつもりはなかったんだ、もう痛くはないから安心してくれ」
「……まさか、アクトさんも……?」
「そうだな、俺も右腕だけじゃすまなかったよ。
──悲しく、ないんだ。色んなものを失ったはずなのに、どうしてもその感情を思い出すことができない」
小柄な体が震えている。今やぽろぽろとこぼれるほど、彼の頬を濡らす涙の意味を。そんな、そんなと漏れる嗚咽の理由を、俺が理解することはもうないのだろう。
周りを怯えさせぬよう、マントで隠した右肩にレイの手が触れる。右腕のあった場所をなぞる手つきが痛々しくて、大丈夫だよ、と薄い背を撫でた。
「言ったろ? もう悲しくないんだ、って。
そりゃ不便にはなったけど、俺にとってはそれだけだ。むしろ俺にはいい薬だったよ、ようやく目が覚めたような気がする」
過去の自分がしたことや、思ったことを否定するつもりはない。それでも前に進むため、枷となっていたそれを右腕ごと切り離した。本当にただ、それだけのことだったのだ。
「……ほら、あんまり俺に構ってると仕事に支障が出るぞ。俺はもう大丈夫だから、さっきも言った通り笑ってほしいんだ」
レイの涙をぬぐい取り、もう一度彼に笑顔を向ける。素直な彼はぎこちなくも笑みを返してくれるから、それだけでもう充分だ。
「それじゃあな、今度会ったら一緒に食事でもしよう。お前の好きなもの全部、腹いっぱいまで食べさせてやるからさ。
くれぐれも、無理だけはするなよ?」
こき使われても文句一つ言わないであろう彼に、念のためと釘を刺した。俺なんかのために涙を流し、頷いてくれる優しさは時に危険を招くだろうから。
もう二度と、失うことはしたくない。失ったところで悲しくはならないのに、そう思うことはおかしいだろうか。
「……リルア」
手を振り別れたレイの背中に、彼女の影を重ねてしまう。彼の姿が遠ざかるにつれ、リルアもまた遠くに行ってしまうような。そんな錯覚を覚えた。
「ごめん、な」
あれからリルアは一度たりとも、目を覚まさずに眠ったままだ。
長かった冬も終わりを告げて、この世界にも春が来た。雪解けは対立やいさかいの緩和を意味することもあると、どこかで聞いたことがある。
しかしそう簡単に平和が訪れるはずもなく、今日も忙しく駆け回るフェリクスたちを遠巻きに眺めた。
──結論から述べるなら、「マスターは今も生きていた」。
どうやら無理をしすぎたせいで、長期入院を余儀なくされていたらしい。ようやく帰ってこられたのだから、たくさん小説を書くつもりだと意気込む姿はいつも通り輝いていたけれど。
マスターとして敬いこそすれ、そこにもう恋愛感情はなかった。
決別のために振るった刃が、断ち切ったものはきっと大きい。もし思い込みではなく俺の意思で、心の底からマスターを愛せていたのなら──結末はもう少し、違うものになっていたのかもしれないが。
「ただいま」
散らかった家に足を踏み入れ、返事など来るはずもないのに呟く。マントを脱ぎ捨て荷物を下ろし、乱れたままのベッドに倒れ込んだ。
「……疲れた、なあ」
リルアたちと暮らしていたときは、あれほど欲した一人の時間。自由になった俺は今、それがどれほど贅沢な願いだったのかを知る。
本来なら心安らげる場所であるはずの自宅が、こんなにも空っぽで色のない空間だとは思いもしなかった。悲しくはないのにひどく退屈で、そのくせ何をする気にもなれないこの空虚さを、人は寂しさと呼ぶのだろう。
全てが全て、俺のせい。鉛玉を呑み込んだように喉の奥が詰まって、ただでさえない食欲が余計に減退していくのを感じる。
「なんだろうなー……やたらと眠い……」
あの日、触れられぬ壁となってフェリクスを拒んだ光は、どうしてかリルアに破られたらしい。自らに突き刺さる刃の感触を覚えているのに、うまくいっても残らなかったはずの両脚は、未だ平然とここにある。
本来ならば、刀身に蓄えられた力は「俺の体内のみで」炸裂するはずだったのだ。けれど気絶していたはずのリルアは壁を破り、何を思ったか剣に触れてしまった。
ゆえに力は分散する。ゼントを葬るだけの力はこちらにも流れたが、リルアにはそれ以上のダメージがあったのだろう。術者が俺であったことと、彼女が規術をそう使っていなかったことにより、体のどこかが欠けるようなことは起こらなかったものの。
眠ってしまったのだ、彼女は。
いつ目覚めるかは分からない、とフェリクスが言っていた通り、冬が過ぎ去り春が芽吹いても目を覚まさない。今はフェニックス本部の奥深くで、ただひたすらに目覚めの時を待つばかりだという。
そんな彼女が俺に伝えたいこととは、いったいどんなことなのか。重い体をどうにか起こし、袋から取り出した宝珠にそっと触れる。
途端、世界がその色彩を、光を、空気を一瞬にして変えた。