「おーおー、やってるやってる」
伸ばした「右手」で日差しを遮り、俺は窓から遠くを見やる。
「なんでもトロイの木馬が発見されたらしいなー? ご苦労なこった」
「まったくだよ、今回は戦いじゃないが面倒だろうに……って、おいお前ッ!?」
誰もいないはずの室内、それも俺のすぐ左から聞こえた声。慌てて声のした方を見れば、いつの間にやらティーカップを片手に「そいつ」は笑っていた。
「……ゼント、なんでお前がここにいる」
「おっ、勝手に紅茶飲んでることに関しては許してくれるのか? さっすがアクトだな、やっぱりあんたは最高の相棒だよ」
「そこにまでツッコんでたら話が進まないだろ、お前だから一杯くらい許すけどさあ……
んで、もう一回訊くがどうして『フェニックス隊員の』お前がここにいる?」
フェニックス隊員の、を強調して問いかければ、不法侵入のスペシャリストは「男ってのは謎が多い方がモテるんだぜ」と口角を吊り上げる。
「もしかしなくてもさー相棒、あんたまだオレのこと、『前に戦ったマルウェアの生まれ変わり』かそれに近いもんだと思ってるだろ?」
「だってお前とそいつ似てるし。名前も一緒だし……フェリクス不思議がってたぞ、いつの間にか隊員が一人増えてた、って」
「えー、そいつってあんたに感染した弱小ウイルスだったんだろ? つまり人の姿を持ってたわけじゃなくて、なんかよく分からん形のなんかよく分からん存在だっただろうし。
そんなのとオレを『似てる』なんて失礼だとは思わねーのかよー」
「別に? だってお前だし」
「容赦ねー理不尽さだなー……
でもよー、一度は消滅したマルウェアがセキュリティソフトに生まれ変わりー、なんてありえると思うか?
正直オレは思わねーけど、もしそれが正しかったとしたら……マルウェアなんて星の数ほどいるんだしさ、毎度そんなことやってたら隊員の増えすぎで組織が破裂するぜ?」
カップの中身をゆらゆら揺らし、彼の言うことはもっともではある。けれどこいつが俺を抱えて空を飛んだ日、俺は確かに聞いたのだ。
「じゃあお前、ちょっと前に俺を抱え上げたとき──初対面のはずの俺に、なんて言ったか覚えてるか?」
「んー……なんだったっけ? そこの急いでるお兄さん、フェニックス印の運搬システムをご存じですかー、だっけ?」
「絶対違う」
はぐらかすなと睨みつけても、のらりくらりとかわされてしまう。こいつはそういうやつだと分かってはいるのに、どうしても俺はあの日「トモダチが欲しかった」と泣いたあいつを忘れられないでいる。
「……『導き照らして』もらったよ、あんたのおかげでな」
「ん? お前今……」
「んやー、何も言ってねーよ? 空耳じゃねーか?
細かいことを気にするとシワになるぜー。あいつらの作業も終わるみたいだし、この話も終わりってことにしねーか?」
言われて目をやった窓の外、広野にどでんと立っていたトロイの木馬は解体が終わり、フェリクスによる焼却作業も終盤を迎えていたところだった。
「……他の隊員は真面目にやってるのに、お前ってほんっと自由だよな」
「働きアリにもサボリ魔はいるんだぜ」
「あーはいはい、言ってろ」
こいつ相手に真面目な話をしようとした俺が馬鹿だった。分かっちゃいるよちくしょうめ。
「で、お前はどうしてここにいるんだ」
「え、まだそれ引きずってたの?」
「当たり前だろ、お前が脱線させたりごまかしたりするから答え聞いてないぞ」
「そりゃあなー、言わなくても分かってほしいんだけど?」
手にしたカップをぐいっとあおり、いたずらっぽくゼントは笑う。
「それはなー、そこにいるリルアちゃんと同じように……オレもあんたが大好きだからだよ」
は?
「むむっ、バラしちゃダメだよゼントくん!」
辺りを数度見回して、いないじゃねえかと口にする直前。勢いよく開いたドアの向こうから、リルアが現れ駆けてくる。
「……ここ二階だし、それ以前に俺の家なんだが?」
飛び込んできたリルアを受け止め、なんとはなしに頭を撫でてやれば、褒められた子犬のように俺を見上げた。
「うん、だからチャイムは鳴らさずにこっそり上がってきたんだ」
なぜに。
「ボクは音に関することならなんでもござれだからね、音を立てないよう来たのにゼントくんすごいね?」
「ふふふ、リルアちゃんはもう少し気配を『無』にする力が必要だなー。もっと空気に溶けるつもりでいけば、きっといい感じに背後が取れるぜ。
……つーかリルアちゃんだけずるいー、オレもアクトに頭撫でてほしい!」
「ほんとお前らなんなの!?」
まるで子犬が二匹だな、と内心息をつくも、頬が緩むのをどうしても止められない。いつか望んだ何もかもが今、俺の元にあるのだと思うだけで胸がいっぱいになる。
とはいえ俺も、何が起こったのかを理解したのはつい最近だ。こればかりはマスターに感謝してもしきれないだろう、あのひとのおかげで全て元通りなのだから。
──基本的に俺たちのデータは、一度このパソコンから失われてしまえば元に戻らない。だがそれはマスターがいなかった頃、バックアップデータを使うことができなかった時期に限られる。
要するに、だ。よそにバックアップされていたデータが、再びこのパソコンに入力されたらどうなるか。それはもちろん、失われたものの修復を意味するわけで。
削除されたデータが戻った瞬間、俺たちの体は、感情は一気に回復した。同時にリルアも目を覚まし、結果として今笑っている。
「ほんとはお兄ちゃんとレイくんも一緒に来るはずだったんだけどね、お兄ちゃんってばまだレイくんたちに申し訳ないと思ってるみたい。アクトくんからの伝言はしっかり聞いてたし、もうみんな元通りなのにね。
だから二人がちゃんと話し合えるように、ボクはこっそり離れてきたんだ」
「なるほどねえ……だから二人に気付かれないよう足音を忍ばせてきた、と」
「そうそう、だからそろそろ二人も……っと、来たみたい!」
噂をすればなんとやら、階下のチャイムが軽やかに鳴る。興味津々のゼントとレイを連れ、階段を下りれば見慣れた姿があった。
「リルア! どうして一人で行くのです……!」
「し、心配したんですよー……!」
珍しく息を切らし、慌てて靴を脱ぐフェリクス。玄関口で一度こけそうになってから、リルアに駆け寄り抱き締める。
「……リルア」
「どうしたのお兄ちゃん、何をそんなに」
「あなたのことが心配だったからに決まっているでしょう……!」
そのときリルアの瞳が見開かれたのを、俺は決して見逃さなかった。
「トロイの木馬が発見されたばかりなのですから、戦えないあなたが一人でうろつくのは危険です。下手をすればマルウェアに見つかって、攻撃されていたかもしれないのに!
突然あなたが消えたとき、私たちがどれだけ、どれだけ心配したと思っているのです……!」
「……おにい、ちゃん」
「ああよかった、よかったですリルア……!」
乱れた息すら整えず、リルアを抱き締める彼の背へと、彼女の両手がそろりと回る。
「ごめんなさい……」
「分かればいいのですよ、次からはもう……」
「ありがとう」
「……え?」
まるで大輪の花がふわり、と匂い立つような笑顔だった。
「ふふ、お兄ちゃんもこんなに慌てることがあるんだね。不謹慎だけど離れてよかったかも。
……あのねお兄ちゃん、ボクは確かにかっこいいお兄ちゃんが大好きだよ。
でも今みたいにさ、かっこつけてない……というより、素の表情を見せてくれるお兄ちゃんの方がボクは好き。義理とはいえど兄妹なんだから、もう少し自然体で接してほしいんだ」
「リルア……」
「あと、ある程度は仕方ないことかもしれないけど……ボクのためにお兄ちゃんが死んじゃうのは嫌だ。生き返るって分かってても、お兄ちゃんが死ぬのはもう見たくないの」
……まったくもって美しい兄妹愛だよ、やっぱり俺たちは蚊帳の外だけどな。
リルアが眠りから覚めたとき、一番泣いていたのは案の定フェリクスなのだが、当のリルアは寝ぼけていたから記憶がないのだろう。一応は綺麗に収束したようだし、結果オーライってことでいい……のかな……?
「え、っと」
「おうレイ、お疲れお疲れ」
ともあれ遠慮がちにやって来たレイの頭を撫で、件の兄妹に目をやれば──いつの間にか二人共、こちらをまっすぐに見つめていた。怖い。
「な、なんだよ」
「……私のことも撫でてください」
「ボクももう一回撫でてほしい!」
「はぁ!?」
俺に撫でられても御利益の類はないぞ、と後ずさっても効果なしだ。仕方なく二人の頭を撫でて、ゼントとレイに目をやればキラキラした目で見つめてくる。
「俺の腕は二本しかないんだけど」
「それは分かってるけど……アクトくんに撫でてもらえるとね、なんかこう……キミの『特別』になれたんだなーって気持ちになるというか……ね?
要するにみんなキミが大好きなんだ、だからもっともっと仲良くなりたいの!」
な、んだよそれ!
「ほらー、やっぱみんなアクトのこと大好きじゃねーか。こいつは俺の最初のトモダチなんだから、独り占めは厳禁な!」
「そういうゼントくんが独り占めしてどうするのー! ボクはアクトくんの恋人なんだからね」
「そうですよゼント、楽した上で独り占め、なんて言えるほど世の中は都合よくできていませんからね。
……それにアクトの最初の友人は私です、あなたは二番手ですから少しは遠慮したらどうですか」
「僕のことも、わ、忘れないでいただけると……!」
「落ち着けよお前ら……!」
ぎゅむぎゅむ押しかけるフェリクスの左手薬指は、手袋の下にひっそりと指輪のふくらみが見えた。一応俺を奪い合っているようだが、レイもリルアもフェリクスも、そしてゼントも楽しそうに笑っている。
ああ幸せだ、満たされている。つられて笑みをこぼすには、まだ少し表情筋が硬いけれど。
「……ありがとう、な」
笑えただろうか、こんな俺でも。
愛せただろうか、美しくも残酷なこの世界を。
「あっ、あーそうだ! みんなちょっとアクトくんから離れて!」
幸いにもリルアの耳に届くことなく、俺の言葉はかき消されたのだろう。珍しく声を大にして、ぴょこぴょこ跳ねるリルアはやけに元気そうだ。
「どうしたリルア、何かあったのか?」
「うーんとね、アクトくんに言いたいことと渡したいものがあるの」
リルアの言葉に従って、俺から離れた三人がニヤついているのは気のせいだろうか。スカートのポケットから何か、小さな箱を取り出したリルアは数度咳払いをして。
「好きだよアクトくん、結婚してほしいんだ」
「……はい?」
目を点にする俺の周りで、わっと歓声が上がった。
「やったなリルアちゃん、オッケーだってよ!」
「り、リルアさん素敵です……!」
「指輪は私のものとお揃いですしね、断る理由がありませんよね」
「い、いやいやいやいや待てよ、今のどう聞いてもイエスって意味じゃもががっ」
勝手に盛り上がる三人を止めるため、口にしようとした言葉はゼントの手によって塞がれる。
「……ダメ、かな」
「ほら返事! ちゃんと返事しとけアクト! イエスかはいで答えるんだぜ!」
それどうあがいても結婚じゃねえか!
ゼントから解放され、強制的に向き合わされた俺とリルア。真剣な瞳で俺を見上げる彼女に、返す言葉が一つしかないのは分かりきったことだろうに。
「あ、っ」
ただしお前からのプロポーズを大人しく受けるほど、俺も腑抜けちゃないんでね!
リルアの手からそっと指輪の箱を取り上げ、ぱかっと開けて片膝をつく。以前どこかで見たポーズだから、既出感がぬぐえないのはまあご愛嬌。
「好きだよリルア、俺と結婚してくれますか」
一瞬だけ静寂が落ちる。
「あはは、やっぱりキミにはかなわないなあ。負けたよ。
……よろしく、お願いします」
やったー! と再び歓声が上がった。
先ほどよりも激しくもみくちゃにされながら、「頼みましたよ」とフェリクスに殴られたことだけが解せない。痛いじゃねえか。
……ああそうか、もしかしたらまだ、俺の物語は始まったばかりなのかもしれない。これからずっとこいつらと、わいわいやっていけたら幸せだな、と。
ノベリスト自身が物語を紡ぐのも、悪くはないのかもしれない。