宮城県民に「かまぼこと言えば?」と聞いたら、きっとほとんどの人が答えるであろう、笹かまぼこ。
宮城では板かまぼこより、仙台三大土産の1つでもある、笹かまぼこは、色んなメーカーさんから出ていますね⁉
その起源や由来、ルーツなどを少し調べていきたいと思います。
笹かまぼこは、明治時代初期に仙台湾でヒラメが豊漁となった際に、余ったヒラメを保存するために考案されたのが始まりです。当時、仙台市内の阿部蒲鉾店がすり身を手のひらで笹の葉型にして焼き上げたもので、「手のひらかまぼこ」「べろかまぼこ」などと呼ばれていました。「笹かまぼこ」という名称は、昭和初期に「伊達家の家紋」『竹に雀』の笹にちなんで阿部蒲鉾店の創業者が「笹かまぼこ」と命名してこの名松が定着したようです。
四方を海に囲まれた日本。
全国各地にその土地の魚を原料とした「ご当地かまぼこ」があります。
なかでも仙台名産と呼ばれ、ギフト向けの高級品として不動の地位を築いているのが「笹かまぼこ」
特に地元仙台の百貨店では、ギフトの定番ビールを抜いての人気っぷり。
ここまで地元に愛されていながらも、意外と知られてないその理由。
かまぼこが好きな方も、なぜだか気になる方も、もっと笹かまを好きになる、誕生物語をご紹介します。
ぜひ聞いていただきたい!笹かまが全国区になったワケ。
「笹かまぼこ」の名付け親の熱い思い。香ばしさが漂う、本物の笹かまづくりに必要な3つの掟(おきて)。
表面を軽くあぶると
軽くあぶるとふわっと立つ、焼き魚のような香ばしい香り…
やっぱりこの味です。
阿部蒲鉾店が「笹かまぼこ」の名をかたり始めてから、ずっと守り続けてきた3つの掟。「掟(おきて)」によって作られている笹かまです。
【一に買い出し】良い魚を仕入れるべし
昔ながらの調味料のみでつくられる阿部蒲鉾店の笹かまは徹底して素材の良さにこだわってきました。
「笹かま千代(せんだい)」では、鮮度の良いうちに加工した上級グレードのすり身のみを厳選。
これは魚の中からわずかしか取れない、たいへん貴重なもので、何度も丹念に水にさらすことで、雑味のない純白なすり身に仕上げています。
【二に白】より良いすり身を作るべし
かまぼこづくりは温度が命。摺りの工程で温度が上がると、ぼそぼそした食感の良くない蒲鉾になってしまいます。摺(す)りの工程は、低温を保ったままじっくりと仕上げます。
阿部蒲鉾店の笹かまは、塩や水を入れるタイミングも温度と時間をしっかり管理した上で、機械だけに頼らず、職人が五感を研ぎ澄ませ、すり身の状態を見極めながら行っているそうです。
【三に釜】よき焼き加減にこだわるべし
阿部蒲鉾店の笹かまはじっくりと時間を掛けて焼き上げ、側面まで焼き色がついてるのが特色です。
遠赤外線で生地の中まで火を通し、表面は近赤外線でパリッと香ばしく焼き上げるという、まさに、手焼きのような焼き加減にこだわっているそうです。
軽くあぶるだけで焼き魚のような香ばしさ漂う、昔ながらの味わいです。
実は、この掟。
阿部蒲鉾店に30人以上在籍する国家検定合格の水産ねり製品技能士に語り継がれているそうです。
私は都合で、県外に住んでいたことが多く、練り物はよその県でも食べましたが、やっぱり、宮城の笹かまが一番おいしいお思いましたね!みなさんも、県外に行かれることがあったら、よその県のかまぼこやちくわなんか食べてみてください。全然違うから‼
紀文の笹かまは1967年に販売を開始し、その後、販売の拡大とともに製造拠点が広がり全国へのお届けが可能となっていきました。今ではいつでもどこでも手軽に笹かまを味わえるようになりました。
笹かまぼこの起源
仙台市内のかまぼこ店が、ヒラメを用いた笹の葉型の焼きかまぼこを売り出したのが始まりと言われているそうです。
明治35、6年頃、閖上(ゆりあげ)から金華山(きんかさん)にかけて、ヒラメの大漁が続きました。
消費地でもある仙台に盛んに運び込まれましたが、当時は輸送力も、保存設備も不十分で、ひと山いくらで叩き売りされてもなお、持て余す始末でした。
そこで贅沢なヒラメを使ったかまぼこが作られるようになりました。
現在のような「笹かまぼこのおいしさになったのはなぜ?」
ヒラメのかまぼこは香りや味は上等ですが、たらやぐちのように腰の強さがないのが欠点でした。
試行錯誤の末、鮮度のいい材料に鰹節で味をつけ、でんぷんなどの増量剤は使わず、みりん・砂糖・卵白等で練り合わせることでプリっとした食感のかまぼこが完成し、今日に至っているそうです。
現在では、各社趣向を凝らした商品を販売してるそうです。
「笹かまぼこ」という名前の由来
・時期:昭和初期。仙台市内の「阿部蒲鉾店」の創業者が名付けたと言われています。
・理由:仙台藩祖である伊達政宗公の伊達家の家紋「竹に雀(すずめ)」に描かれている笹の葉にちなみ、仙台の名産品としてふさわしいように、「笹かまぼこ」と命名されました。
こうして、もともと地域で親しまれてきた平たい蒲鉾が、仙台の歴史と文化に根ざした「笹かまぼこ」という名称で全国的に知られるようになりました。
明治・大正の頃は、その形状から、「べろ〔舌〕かまぼこ」や「手のひらかまぼこ」と呼ばれていました。
昭和の時代に伊達家の家紋である『竹に雀』から、「笹かまぼこ」と呼ばれるようになったようです。
ぜひ聞いて頂きたい!笹かまが全国区になったワケ。
「笹かまぼこ」の名付け親の熱き想い。
その昔、「笹かまぼこ」は「べろかまぼこ」と呼ばれていました。他にも「木の葉かまぼこ」「手のひらかまぼこ」など。
それもそのはず。当時の笹かまはあくまでもダモノ(価値のつかないもの)。」もともとは魚が余った時につくられる程度のB級品でした。
さかのぼるは明治。仙台では鯛や平目の豊漁が続いていました。
当時は輸送手段も未発達で、氷や冷蔵設備などの保存方法もなかったので、漁れすぎて持て余していました。
それをとある職人さんが身を取り、包丁で肉を叩きすり鉢ですりつぶし、熱が通りやすいように木の葉状に平らにして竹串に刺し、炭火で焼いて出したところ、味もよく保存性も高まり、これが大評判に。やがて一般の魚屋でもつくられるようになり、街中を振り売りされるようになっていきました。
そんな安価な庶民の味に「笹かまぼこ」と名付けたのが阿部蒲鉾店の創業者。
昭和初期まだまだ二流扱いされていましたが、伊達政宗で有名な千代藩主伊達家の家紋「竹に雀」の笹にちなみ、仙台名産にぴったりということで「笹かまぼこ」と命名。当時、ほかの店では1枚5銭程度だった笹かまを、平目だけを原料にして10銭で売り出しました。素材、製法、焼きにこだわり、飛び切りおいしい笹かまへと生まれ変わらせたのです。
昭和20年夏、仙台空襲で仙台中心部は跡形もなくなりました。戦後の統制経済で原料の入手に苦労し、なかでも笹かまを焼くのに不可欠な、木炭不足が深刻でした。
「ピンチはチャンス」というもので電熱を利用した「自動笹かま焼機」の開発・政策をし、さらに特許は取らず地元の、同業者に公開したのが、「笹かまぼこ」の名付け親である阿部蒲鉾店の創業者。
今で言う「オープンソース」を当時かまぼこ業界でやっていたということになります。これが同業者に広まり、のちに、仙台で地域産業として成長する大きなきっかけでした。
今でいう「オープンソース」を当時かまぼこ業界でやっていたということに
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