はじめまして、たっくです!
初回は日本音楽史に革命を起こした伝説的音楽グループ、「イエロー・マジック・オーケストラ」(略称「YMO」)について紹介します!
長くなりますが、最後まで見てくれると嬉しいです!
「イエロー・マジック・オーケストラ」結成
今から48年前の1978年2月19日の夜、細野晴臣さんが坂本龍一さんと高橋幸宏さんを自宅に呼びました。コタツに入り、おにぎり(みかんという説もある)を食べながら「マーティン・デニーの『ファイアー・クラッカー』をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコにアレンジして、世界的ヒットさせ400万枚売る。」というメモを2人に見せ、「イエロー・マジック・オーケストラ」が結成されました。
グループ名には白魔術(白人音楽)でも黒魔術(黒人音楽)でもない、シンセサイザーを駆使した黄色人種独自の音楽「イエロー・マジック」という意味があります。
売れなかったファーストアルバムから海外初公演成功まで
1978年11月25日、ファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を発売しましたが、初回プレスは500枚。そのうち200枚程度しか売れなかったと言われています。
翌年1979年5月30日、ファーストアルバムをアメリカマーケット向けにリミックスした「イエロー・マジック・オーケストラ(US盤)」が発売されました。大きな違いとしては「東風」が「Yellow Magic(Tong Poo)」にタイトルが変更され、吉田美奈子さんのボーカルが加えられています。
その後、同年8月2日から4日にロサンゼルスのグリーク・シアターでチューブスの前座公演を行い、海外初公演ながらも観客総立ちでアンコールを浴びました。
この前座公演の成功から日本人音楽グループとして初のワールドツアーを行うこととなります。
1番売れたセカンドアルバムから第一回ワールドツアーまで
1979年9月25日、セカンドアルバム「ソリッド・ステート・サヴァイヴァー」が発売されました。このアルバムは後にオリコンチャート最高1位を獲得し、トータル100万枚以上売れました。収録されている「ライディーン」や「テクノポリス」は社会現象となります。
同年10月から第1回ワールドツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をスタート。ロンドン、パリ、ニューヨークなどの大都市を回りました。国内ではツアー中にテレビ特集やラジオなどで注目を集め、帰国するころには大人気グループになっていました。「逆輸入」という形で国内で大ブームを起こしました。
全盛期からファンの切り捨て、メンバー2人の対立
翌年1980年2月21日、ライブアルバム「パブリック・プレッシャー」を発売。同年3月から初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われました。同年6月5日、スネークマンショーのコントを曲の間に交ぜた4枚目のアルバム「増殖」が発売され、10月には第2回ワールドツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」がスタート。8か国19公演が行われ、12月に日本武道館で4日連続の公演で終了しました。
翌年1981年3月21日、5枚目のアルバム「BGM」が発売されました。このアルバムは全体的に暗いアルバムでYMOの音楽を「まるでBGMのようだ」と批判した音楽評論家への皮肉の意味でタイトルが付けられました。「ソリッド・ステート・サヴァイヴァー」のようなアルバムを期待していたファンからは「失敗作」「駄作」と酷評され、売り上げも伸びませんでした。細野晴臣さんは「何をやっても売れる、だったら遊んじゃおうと思った。」、高橋幸宏さんは「ファンの切り捨てをしました。」と発言しています。
同年11月21日、6枚目のアルバム「テクノデリック」が発売されました。このアルバムではサンプリングが使用され、その後の世界中のミュージシャンに影響を与えました。
同年11月24日から2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」がスタートし、全国11会場で行われました。
このころ、細野晴臣さんと坂本龍一さんの間で音楽の方向性の違いで対立が起こります。高橋幸宏さんが仲を取り持っていました。このことがきっかけで解散に繋がっていきます。
活動休止から活動再開、そして解散
1981年に解散するという考えがメンバーであったそうなのですが、レコード会社のビジネス面の要求で先延ばしにされ、活動休止という形になります。
1982年、メンバーはそれぞれソロ活動を行い、YMOとして音楽活動はありませんでした。
1983年3月、シングル「君に、胸キュン。」でYMOの活動を再開しました。同年5月24日に7枚目のアルバム「浮気なぼくら」が発売されました。
同年10月、「散開」(解散)が発表され、最後のライブツアー「1983 YMOジャパンツアー」が11月から全国6会場で行われました。
同年12月14日に8枚目のアルバム「サーヴィス」が発売されました。このアルバムはライブツアー中に発売されました。
翌年1984年2月21日、ライヴアルバム「アフター・サーヴィス」を発売。同年5月12日、映画「A Y.M.O. FILM PROPAGANDA」を公開し、活動を終了しました。
10年後の再生
散開から約10年後の1993年2月、「再生」(再結成)が発表されました。
同年5月26日に9枚目のアルバム「テクノドン」が発売され、6月10日、11日には東京ドームにてライブが行われました。
メンバー紹介
メンバー3人を簡単に紹介します。
細野晴臣
はっぴいえんどのメンバーとして日本語ロックを築き上げました。
ソロ活動や楽曲提供、映画音楽などでも活躍しています。
坂本龍一
世界的に活躍した作曲家で「戦場のメリークリスマス」で日本人初の英国アカデミー作曲賞を受賞し、「ラストエンペラー」では日本人初のアカデミー作曲賞を受賞しました。2023年3月28日逝去。
高橋幸宏
サディスティック・ミカ・バンドのドラムやソロ歌手として活動しました。ファッションデザイナーとしても活躍し、自身のブランドを展開しました。2023年1月11日逝去。
YMOのここが凄い!3選
1.当時の最先端技術を使ったポップミュージック
YMOが登場する前のシンセサイザーは実験音楽や効果音など、「特殊な音」として使われていました。それをYMOは主役の楽器として使い、ポップミュージックに変えました。これが後に有名な「電気グルーヴ」や「Perfume」、「サカナクション」など多数の音楽アーティストが影響を受けることとなります。
2.YMO第4の男「松武秀樹」さん
YMO成功の裏にはサポートメンバーの松武秀樹さんというとても重要な人物がいます。松武秀樹さんはシンセサイザーの巨匠・冨田勲さんの弟子で、タンスと言われる巨大なモジュラー・シンセサイザー「Moog Ⅲc」を操作し、音作りをしていました。この音作りの凄さと難しさを次で紹介します。
3.ライブごとに違う音色
YMOの1番の凄さと言えばライブを挙げる人も少なくありません。一つの理由として、ライブごとに音色を変えているからです。特に第2回ワールドツアーでは違いがよく分かります。ですが、アナログシンセサイザーは音が不安定になりやすく、松武秀樹さんは音作りに苦戦し、音が安定するまで数時間かかることもありました。
YMOに出会ったきっかけ
自分が初めてYMOの音楽を聴いたのは今から約10年前の小学生のとき、従姉の家の電子キーボードの番号を選んで流れた内蔵曲のライディーンでした。そのときは音楽に全く興味がなく、誰の曲か分かりませんでした。ただかっこいい曲だなということは覚えています。
それから年月が流れ2024年11月、Youtubeで千葉ロッテマリーンズの応援歌の原曲を調べていました。友杉篤輝選手の応援歌の原曲、ロシア民謡「トロイカ」がファミコン版テトリスに使われているのを知ってファミコン版テトリス全曲集を見ました(元々ゲーム音楽に興味があったから)。その中でもTechnotrisという曲が気に入りコメント欄を見ていると、テクノポリスという曲が元ネタだと知り、早速聴いてみると衝撃を受けました。初めて聴いたあのときの興奮は忘れられません。
他の曲も聴いてみようと思い、1番再生されている「ライディーン」を聴くと、「あれ、なんか聴いたことあるな、小学生のときに電子キーボードで聴いたあの曲だ。」と思い出しました。
それから毎日リピートし、YMOの虜になりました。これがYMOとの出会い、そして様々な音楽に興味を持ち始めたきっかけです。今でも毎日のようにYMOの音楽を聴いています。
おわりに
以上、音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ」の紹介でした!
まだまだ勉強中なので、間違っている部分があったら申し訳ないです。
今回初めて記事を書きましたが、次回以降は音楽紹介や映画紹介、プロ野球のことなど好きなものについて書こうと思うのでよろしくお願いします!
