アダムはいなかった 「原罪」1

 ……ああ、そうか。記憶の海から浮上する、その刹那ふと思い出す。

 今思えばそれが、「方舟」の正体なのだろう。イヴから託され、今はおそらく半分程度、私の管理下にあるそれは——こうして仮初の世界として、私たちを守る壁となり。たくさんの命を乗せて、今も大海のどこかにある。

 そのことを自覚した途端、雲が晴れるように視界が「今」のものと切り替わる。ほとんど無意識のうちに帰宅し、シャワーを浴びていたのだろう。薄暗い部屋の中、かすかに濡れた髪に、なんならドライヤーまで当てて、と。

 その時ふと気付く。ここは自室ではなくリビングのソファの上で、私の手は何も握っていない。慌てて振り返れば予想通り、どこか悲しげなままのサイラスがいた。

「……おかえり。なんだかずっと考え事してたようだから、そっとしておいたんだけど……リビングの床、びしょびしょになっちゃうからさ。それ以外のことは、全部君がしてたから心配しないで」

「ありがとう、ございます……?」

「はは、なんで疑問系なのさ。

 というか君、いっつも同じ服だよね。パジャマとかないの?」

「緊急で、呼び出しがかかった時に……悠長に着替えている暇なんてない、ので」

「そっか。色々大変なんだね、戦闘員っていうのも」

 それからほんの少しの間、互いに無言だった。けれど元より、肩につかないくらいのショートヘアだ。優しく指で梳きながら、再開された温風もすぐに止んで「できたよ」と。

「短いと身軽でいいね、僕はこの髪がアイデンティティーだから切らないけどさ!」

「ありがとうございます。確かに、人に溶け込む気ゼロの色と長さですもんね」

「だって短くしたら僕、ただかっこいいだけの白髪男だよ? それに君と離れたって、いい目印になるし——」

「離れませんよ。任務のこともありますし、一緒に死にますから」

 ……ああ、またそうやって悲しい顔をする。

「考え直す気は、ないのかい」

「ない、と言ったら」

「僕としては死んでほしくないから、強硬手段に出るしかないかな」

「……随分と、勝手なことを言いますね」

 お互い様だろ、と頭の隅、冷静な自分が声を上げるものの。ここで折れるわけにもいかず、数秒の沈黙が流れた。

「……じゃあ君には、心残りとかやり残したこととか、そういうものは特にないと?」

「それは……もちろんありますよ。ただ不確定要素すぎて、本当は達成されているかもしれない復讐だから……もう、いいんです」

 どういうことだい、と続く声に、眉根を寄せても撤回の声は上がらない。これはどうやら、話すしかないようだ。

「……存在しないかもしれない神を、恨んでいるんです」

 いつかの母の笑顔がよぎり、そしてすぐさま消えていく。

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静海

小説を書くこととゲームで遊ぶことが趣味です。ファンタジーと悲恋と、人の姿をした人ではないものが好き。 ノベルゲームやイラスト、簡単な動画作成など色々やってきました。小説やゲームについての記事を書いていこうと思います。

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