……ああ、そうか。記憶の海から浮上する、その刹那ふと思い出す。
今思えばそれが、「方舟」の正体なのだろう。イヴから託され、今はおそらく半分程度、私の管理下にあるそれは——こうして仮初の世界として、私たちを守る壁となり。たくさんの命を乗せて、今も大海のどこかにある。
そのことを自覚した途端、雲が晴れるように視界が「今」のものと切り替わる。ほとんど無意識のうちに帰宅し、シャワーを浴びていたのだろう。薄暗い部屋の中、かすかに濡れた髪に、なんならドライヤーまで当てて、と。
その時ふと気付く。ここは自室ではなくリビングのソファの上で、私の手は何も握っていない。慌てて振り返れば予想通り、どこか悲しげなままのサイラスがいた。
「……おかえり。なんだかずっと考え事してたようだから、そっとしておいたんだけど……リビングの床、びしょびしょになっちゃうからさ。それ以外のことは、全部君がしてたから心配しないで」
「ありがとう、ございます……?」
「はは、なんで疑問系なのさ。
というか君、いっつも同じ服だよね。パジャマとかないの?」
「緊急で、呼び出しがかかった時に……悠長に着替えている暇なんてない、ので」
「そっか。色々大変なんだね、戦闘員っていうのも」
それからほんの少しの間、互いに無言だった。けれど元より、肩につかないくらいのショートヘアだ。優しく指で梳きながら、再開された温風もすぐに止んで「できたよ」と。
「短いと身軽でいいね、僕はこの髪がアイデンティティーだから切らないけどさ!」
「ありがとうございます。確かに、人に溶け込む気ゼロの色と長さですもんね」
「だって短くしたら僕、ただかっこいいだけの白髪男だよ? それに君と離れたって、いい目印になるし——」
「離れませんよ。任務のこともありますし、一緒に死にますから」
……ああ、またそうやって悲しい顔をする。
「考え直す気は、ないのかい」
「ない、と言ったら」
「僕としては死んでほしくないから、強硬手段に出るしかないかな」
「……随分と、勝手なことを言いますね」
お互い様だろ、と頭の隅、冷静な自分が声を上げるものの。ここで折れるわけにもいかず、数秒の沈黙が流れた。
「……じゃあ君には、心残りとかやり残したこととか、そういうものは特にないと?」
「それは……もちろんありますよ。ただ不確定要素すぎて、本当は達成されているかもしれない復讐だから……もう、いいんです」
どういうことだい、と続く声に、眉根を寄せても撤回の声は上がらない。これはどうやら、話すしかないようだ。
「……存在しないかもしれない神を、恨んでいるんです」
いつかの母の笑顔がよぎり、そしてすぐさま消えていく。