アダムはいなかった 「涙雨」

 それから資料を手に、どうやって家に帰ったかあまり覚えていない。頬が濡れていない辺り、泣きはしなかったようだがひどく、心が乾いていた。

「……ごめんね、アレク」

 家に帰ってポーチを開けば、案の定瓶は割れていて。なんとか散乱させずに済んだアレクを、しかし新しい瓶に詰め替えてやるだけの力が湧かなかった。

『オレは大丈夫だ、ただなんなんだよあいつら……希空、オレのことは後でいいからな……』

 頷き、リビングのソファに沈み込む。何をする気にもなれない。

 ……頭の中を、今までにあった色んなことがぐるぐる回っている。

 小さな頃の夢はなんだっただろうか。イヴとジェイドに満点のテストを見せて、胸を張っていた私の頭を撫でる手は。私を抱きしめて、大切だよと囁いてくれた二人は。

 もういないどころか、元々いなかったんじゃないかとすら思う。だって今、ここに私はひとりじゃないか。

「なんて、いうかさ。ごめんね、アレク。こんなことで弱ってちゃ、この仕事やってられないのにね」

『……希空……』

「でも、とりあえず新しい瓶取ってこなくちゃね。大丈夫、予備はそこそこあるから……」

 重い体を起こし、近くの棚から瓶を取り出す。テーブルの上に置いたトレーに、一度ポーチの中身を全て出して、と。

 その流れで転がり出た、瓶の破片から目が離せなくなった。

『——お、おい希空! やめろって、おい! 聞こえてるだろ!』

 アレクの声にうん、と答えながらも、左の手の甲に破片を突き刺しては抜いて、治った頃にまた突き刺して、の動きがやめられない。痛いことが嫌で、誰かに迷惑をかけるのも嫌で——今まで自死を思いとどまっていたというのに、なんなんだろうこれは、なんで、こんなことになってるんだっけ。

 元の体でやっていたら、とうに血まみれでボロボロだろう皮膚も、今ではすぐに元通りになる。どうしたらいいんだっけ。何が……いけなかったんだっけ。

 だがどうも、痛みの感覚が鈍い気がする。やっぱりすぐに治ってしまうからだろうか。となればもっと痛くて苦しいであろう場所に、と首元を狙った一撃は——

「——希空!」

 突如現れたサイラスの、右手を傷つけることでようやく、止まった。

「何やってるんだい、いくら死なないからってこんなこと……! いや違うな、ごめん、ごめん……!」

 どうしてそんなに、焦っているのだろう。私の手を握り、何度も「ごめん」と繰り返すサイラスの行動原理が分からない。

「なんで、謝るんですか」

「僕が、僕がわがままだった! 君に死んでほしくなくて、幸せになってほしくて……力を与えたけど、君の傷を、君の痛みを何一つ想像できていなかった……!」

「仕方ないですよ、感情がないんでしょう? なら、理解できないのは当たり前です」

 そうじゃない、とサイラスは首を振る。けれどそれ以上の言葉は続かず、彼はつらそうにうつむくばかりで。

「……一度、眠るんだ希空。昨日の夜から結局、一睡もできていないだろう」

「大丈夫、ですよ。まずはアレクを、元に戻してあげないと」

「いいから!
 ……アレクのことは僕がやっておく。ほら、僕の手を意識して。ここは安心できる場所、だから」

 彼の言葉の直後、かくん、と世界が一段落ちる感覚。このままでは眠ってしまうと気付いて、慌てて手を振り払おうとするも、遅い。

「……おやすみ。大丈夫、何も怖いことはない」

 感覚が閉じる。優しい手が私の頬をそっと、撫でた。

  • 0
  • 0
  • 0

静海

小説を書くこととゲームで遊ぶことが趣味です。ファンタジーと悲恋と、人の姿をした人ではないものが好き。 ノベルゲームやイラスト、簡単な動画作成など色々やってきました。小説やゲームについての記事を書いていこうと思います。

作者のページを見る

寄付について

「novalue」は、‟一人ひとりが自分らしく働ける社会”の実現を目指す、
就労継続支援B型事業所manabyCREATORSが運営するWebメディアです。

当メディアの運営は、活動に賛同してくださる寄付者様の協賛によって成り立っており、
広告記事の掲載先をお探しの企業様や寄付者様を随時、募集しております。

寄付についてのご案内