今さらだった。だってもう、頭上に浮かぶジェイドには意識がない。
おそらく不死をドレインされたのだろう。頭の中に何かが入ってくる感覚と共に、視界が暗くなっていく。けれど外にいるサイラスが、血を吐いて動かなくなっている以上——このまま目を閉じるわけにはいかなかった。
だってこのままでは、イヴに取り込まれて死ぬ。ぼやけ始めた思考の中で、それだけが明確な事実としてそこにあった。
だが——最悪なことに。加護が反応しないということは、これは彼女にとって攻撃ではなく、ただ「一緒にいる」ための行動か、あるいは別の神の力か。おそらく前者だろうなと、思いはすれど悠長にしている時間は、ない。
考えろ。泥沼をかき分けるように。だって私の肩には、この方舟の全ての命がかかっている。まだここで、死ぬ、わけには。
……ああ、でも。私に散々悪口を言って、足を引っ掛けてきた連中を思い出した。けれど今、思い出すべきではないと無理やりに思考から追い出す。それにしてもサイラスが、あれから微動だにしない。
(サイラス、生きてるよね……!)
まさか口を開けるわけにもいかず、呼びかけたそれにサイラスがぴくり、と反応する。血の気の失せた顔を上げ、確かに。私と目が、合った。
震える手で、ナイフを取り出す。ジェイドの血がまだ付いているそれを、目の前に突き立ててみるものの——確かに傷付き、刃が通るだけの穴は空いたがそれだけだ。
……力が入らない。これ以上は、無理か。
瞼が落ちる。サイラスがまた、私の名を呼んだ。ほんの一瞬、迷うようにその瞳が揺れて。
——だぷん、と。
突如背後に、質量が増した感覚があった。はずみで外れたナイフが、赤い残滓と共に沈んでいく。
『……はは、無理やり来ちゃった。なるほど、確かに力が持っていかれる……』
(サイラス! なんでそんな、無茶を)
『なぜって……君をひとりで、死なせられないからだろ……』
弱々しい声と共に、伸びた腕が私を抱き寄せる。そのまま『ごめん』とだけ呟いて、彼は静かに目を閉じた。
……ざわ、と。その時初めて、胸の奥が波立つ。そうじゃない、こんな結末を望んでいたわけではない。
最初の私なら、この状態になった時点で早々に諦めていた。だってあれだけ望んでいた、痛くも苦しくも怖くもない死だ。今だって実際、まだそれが欲しいと叫ぶ私もいる。
けれど——違う。違う、まだ死ねない。だってアレクとも約束した、事件解決を見届けてくれと!
サイラスの腕の中、体ごと振り返る。彼の頬へと手を添えた。
——血に汚れた白髪の下、青い瞳は今は見えない。白い肌は既に死人のようになっているし、間違いなく少し痩せただろう。目を離せるわけがない、けれどそれは彼がきれいだからではなく!
今ここで死にかけているのが、私の名を呼び、笑いかけてくれる彼だからだ。こんなところで、共倒れになるわけにはいかない!
『……はは、そんな熱烈に見られたら……死ぬに死ねないじゃないか。どうしたんだい、希空』
そしてまた、彼は穏やかに笑う。死にかけのくせして。とっくの昔からずっと、死にたかったくせして。
(今、力は全く残ってないんですか)
『そうだね、全てイヴに回収されてしまった。とはいえ外にいたとしても……使うだけの力はもう、残ってなかったから』
本当に、私と共に死ぬためだけに来たのか。馬鹿だなあ、そんなんだから最高神としてポンコツなんだぞ、と。
表情を崩す。そしてもうほぼ動かない頭で、新たに策を練ろうとした時だった。
『オレを使え、希空』
響いた声に目を見開く。アレクの声、だった。