——青い空が、地平線の彼方まで広がっている。
距離が遠くなるにつれ、空の色と混じる山々の緑。大分かすれてはいるものの、その中を走る道の上を人が歩いている。思いきり吸い込んだ空気は、方舟の澱んだものとは違い澄み渡っていて——何より遠くに見える海が、ちゃんと青いことに泣きそうになった。
真上を旋回する鳶の影が、刻一刻と変化しながら地面に落ちて。何よりも髪を揺らす風が、ちゃんとここにあることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
緑が、大地が取り戻されて、無風の方舟にも風が吹き込む。そうして本物の太陽に照らされた、正しい時間感覚の元で生活できるのか。
「……嬉しいなあ……」
『ね、僕も嬉しい。でも君の顔も見たいから、ちょっと休憩しようか』
言って、手近な丘の上に降り。人の姿に戻った彼は、私を見て満面の笑みを浮かべた。
「うん、いい笑顔だ。嬉しいね、一緒にこうしていられることも……この世界を、取り戻せたこともさ」
ひとつ頷く。そのまま私の手を握り、彼は少しだけ声のトーンを落とした。
「……さっきの続きだけどさ、今、君は幸せ?」
問われてしばし、私は答えを返せずに——久しぶりに見た空を、じっと見つめたままでいた。
「……今でもまだ、それについての定義はよく分からないけど……これだけ嬉しいのに『幸せじゃないです』って言ったらバチが当たっちゃうね」
高く高く、腕を伸ばす。そうして太陽を掴むように、私はぎゅっと手を握った。
「そういえば、昔どこかで聞いたのを思い出したよ。『サイラス』って確か、どこかの国の言葉で……太陽、って意味なんでしょ」
「え、知っ……」
「うん、だからイヴに対して未練ありまくりなんだろうなーって、ちょっと思ったこともあったけどさ。
多分違うね、君は私のために来てくれたわけだし。だからちょっとね、自惚れることにしたよ」
赤い顔のまま、後ずさろうとするサイラスに詰め寄る。愛情表現が直球なのか遠回しなのか、よく分からないが笑顔だけが浮かぶ。
「……だから君が、私の前に現れて、私を助けてくれた太陽だってこと……私はすごく、誇りに思うよ。
たくさん助けてくれて、ありがとうね。全部全部、君と兄さんのお陰だ」
だから笑顔と共に、涙がこぼれているなんて。そんなのフィクションにのみ許された、きれいな嘘だと思っていた。
だが今、私の頬を伝うものが喜びと共に流れているなら。それはとても幸せなことなんだろうと、空を見上げる。
……私たちにとっては、取り戻されたばかりの青天井。けれど厚い雲の向こうでは、いつもそこにあったはずのそれ。
きっと初めて、それを見た子供だっているだろう。二度と見られないと思っていた、というお年寄りもいるだろう。
世界は広い。これからまた何度も、私はこの日を思い出しては——まだ隣にいるであろうサイラスと共に、笑い合って生きるのだ、と。
「……知ってるかい、希空。狼っていうのは、パートナーと決めた相手に一生一途なんだ」
「でも男は狼、とか言いますよね? そっちの意味とは違うんですか?」
「あまりにもつれない!」
囁くように落とされた声に、言い返せばまた泣き真似をする。本当に二千年生きたのかこいつは、いつもこうしてばかりじゃないか。
「……ぐすん……別に僕はいいんだよ? そっちの狼でも」
「え、興味ないです」
「一番傷付くよ無関心って……!」
崩れ落ちた彼に、腹がよじれるほど笑う。ああでも彼のことを言えないほど、最近私も泣いてばかりだ。それが決して悪いこととは言わないが……ああ、なるほどこれが幸せか、と。
「……それでもずっと、一緒にいてくれるんだよね」
「そりゃあね。だって僕がそうしたいし……君もそれを、受け入れてくれるんだろう?」
「もちろん、流石にそれは撤回しないよ。
……はは……あ、君の笑い方がうつっちゃったみたいだ。悪くないね、こういうのも」
目を細め、涙を拭う。今日という日はまだ、始まったばかりだ。