行ってきます、とジェイドに手を振る。何度か振り返って、完全に姿が見えなくなるまで手を振って……そしてようやく、私は前を向くことにして。
もう二度と、出ることは叶わないと思っていた外の世界。まだ道は少しぬかるんでいるが、聞いた話によれば雨の際、水上に逃げた人たちがどこかにいるらしく。
復興の進む方舟内からも、いずれ人は減っていくだろう。だがその前に、雨から逃げるのではなく抗うことを選んだ人たちと話してみたい、と。私の願いを聞き入れたサイラスと共に、私たちは旅立つのだ。
「ふふ、でも僕たちの正体を知らない人たちに会うのは楽しみだな。希空も僕のこと、うっかりアダムとか呼ばないようにね?」
「何言ってるの、アダムなんて神は元からいなかったでしょ?」
え、とサイラスが声を上げるのを、なんだかやけに愉快な気持ちで聞きながら。私は「ね、サイラス」と彼の名を呼んだ。
「私だって、これから先は『佐倉』でも『英雄の』でもなく……ただの『希空』だからね。君もただのサイラスだよ、ただちょっと不思議な力が使えるだけのね。
だから、アダムはいなかった。そういうことで、いいと思うんだ」
「……はは、なるほどね。分かったよ、変なことを言ったね。
ありがとう、希空。僕は君という存在に、救われてばっかりだ」
そんなの私も、と言いかけて、なんだか気恥ずかしくなってやめる。代わりに浮かべた笑みは多分、今までで一番自然に、そして優しくできた気がする。実際サイラスも、いつになく穏やかに笑っているから——それでいい、それでいいのだ。
……ここに至るまで、失ったものを想う。命は儚い。喪失に何度涙しても、その痛みに慣れることはできないだろう。
だって刻まれた心の傷は、決して消えはしない。今でもまだ、夢に見てうなされることもある。けれどその回数もすっかりと減ったし、何より私はもう一人じゃない。
自分だけでまっすぐ歩くには、私も彼も傷だらけだけれど。支えあって歩く分には問題ないのなら、それでもう大丈夫。
「ありがとう、サイラス。これからもよろしくね」
草と土の匂いに包まれ、見上げた空は快晴だった。ただそれだけで、私はちゃんと幸せだ。