ネズミ退治を成功させたものの報酬をもらえず、怒った笛吹きによって街の子供たちがいずこかへ連れ去られてしまう・・・。
グリム童話の一つとして知られる「ハーメルンの笛吹き男」。絵本などで有名なのでご存じの方も多いでしょう。
誤解されがちですが、この物語はいわゆる「グリム童話集」ではなく、同じくグリム兄弟によって書かれた「ドイツ伝説集」という書物に収められている伝承です。
この物語、子供向けの作り話やおとぎ話だと思っていませんか?
実は、1284年にドイツで起こった本当の出来事をベースに書かれているのです。歴史やミステリーが好きな人は興味を惹かれる題材かと思いますので、取り上げてみました。
今回は
- なぜ、「ハーメルンの笛吹き男」は実話だったと言えるのか?
- 現在の物語はどのように成立したのか?
- 消えた子供たちはどうなったのか?
この3点について考察していきたいと思います。
目次
・「ハーメルンの笛吹き男」あらすじ
まずは「ハーメルンの笛吹き男」を知らない方のために、この話のあらすじを見ていきましょう。
伝承ではどのように語られているでしょうか?
1284年、ハーメルン市はネズミの大量発生に悩まされていた。その時、自らをネズミ捕りだと称する不思議な男が現れた。男は様々な色の混じった奇妙な服装をしていたので「まだら男」と呼ばれたという。
彼は市民に対して、報酬として金銭をくれるなら、街のネズミを退治してみせようと言った。
街の人々がこれを了承したので、男は笛を取り出し吹き始めた。すると、街中のネズミが走り出してきて、その男に群がった。そこで男は街から出てヴェーゼル川まで行き、ネズミたちと共に川の中に入っていった。こうしてネズミは一匹残らず溺れてしまった。
ネズミ退治に成功した男は報酬を要求したが、市民たちが拒否したので、男は怒って街から出ていった。「(報酬の)代わりにお前たちの大切なものをいただいていこう」と捨て台詞を残したとも伝わる。
6月26日のヨハネとパウロの日、男は再びハーメルンに姿を見せた。今度は恐ろしい顔をした狩人の格好で、赤い奇妙な帽子をかぶっていた。
男が再び笛を吹き始めると、今度は少年少女たちが大勢走ってきて、その数は130人にもなった。
男は子供たちを引き連れて山のふもとまで行き、そこにある洞穴に入って行った。洞穴は内側からふさがれ、男も子供たちも二度と戻ってこなかった。
ハーメルンの人々は大いに嘆き悲しみ、この出来事を起点として年月を数えるようになったという。
以上が現在よく伝わっている伝承になります。
異説では、足の不自由な子がついていくことが出来ず「みんなと一緒に行きたかった」などと言って話を締めくくるものもあるようです。
いずれにしても、笛吹き男は何者だったのか?子供たちはどこへ消えたのか?などを考えるとけっこう怖い話と言えますよね。
・「ハーメルンの笛吹き男」が実話だった証拠は3点ある
さて、この伝承は事実だったと冒頭で言いました。正確に言うなら、伝承の一部が歴史的事実だったということになります。
なぜそう言えるのでしょうか?
それを証明するためには、一次史料(当事者が遺した手紙、文書、日記、碑文など)が必要になります。
「ハーメルンの笛吹き男」伝承の当時(中世)の記録は3点残っていますので、それらをくわしく見ていくことにしましょう。
・教会のステンドグラスに添えられた説明文
この事件を伝えるもっとも古い記録は、ハーメルンにある最古の教会、マルクト教会のステンドグラスと考えられています。
1300年頃にこの教会が改築された際、事件をモチーフとしたガラス絵が説明文とともにはめられていたようです。絵には色とりどりの服を着た笛吹き男と、白い服を着た子供たちが描かれていました。
この絵自体は1660年に他の絵に変えられてしまいましたが、説明文は記録されていて、のちにハーメルンの郷土史家によって復元されています。
その内容は、以下のようなものでした。
1284年、聖ヨハネとパウロの記念日
Wikipedia 「ハーメルンの笛吹き男」より引用
6月の26日
色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に
130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され
コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった
コッペンとは丘という意味ですが、具体的にどの場所を指しているのかは不明。
また、男と子供たちは東方のカルワリオ山へ向かったという別の解釈もあります。
いずれにしても、事件が起こった日付は1284年6月26日とはっきり述べられていること、事実を淡々と書き伝えていることが興味深いですね。
・ミサの合唱書「パッシオナーレ」に書かれた詩
その次に古い事件の記録は、1384年頃のミサの合唱書「パッシオナーレ」のタイトル部分に書かれた、ラテン語の詩です。
この原本も現在では所在不明になっていますが、後世のある牧師が「ハーメルン市史集成」に書き写して残していました。
こちらの内容は、
1284年、130人の愛すべきハーメルンの子供たちが連れ去られた、ヨハネとパウロの日のあの年だ。人は言う、カルワリオが子供らを生きたまま飲み込んだと。1284年、ヨハネとパウロの日にカルワリオ山に入っていった130人の子供たちが行方不明になった。
というものです。
この詩もまた、日付や子供の人数まで同じ内容を伝えていることが分かりますね。
・リューネブルク写本
3点目は、現存する最古の記録であると考えられるリューネブルク写本です。
この写本は1430年から1450年頃に残されたと考えられています。ミンデンの修道士が残した「金の鎖」の筆写本の最後のページに追記されていたものが発見されました。
こちらの内容も前の2つと同じように、1284年にハーメルンに現れた男が笛を吹くと、130人の子供たちが男に従うようにカルワリオあるいは処刑場のあたりまで行き、そこで姿を消してしまった、というものです。
また、ハーメルンでは子供たちがいなくなってから1年2年というふうに年を数えていることや、修道院の院長リューデ氏の母親は子供たちが出てゆくのを目撃した、とも伝えています。
この史料もまた、同じ日付、同じ子供の数を伝えていることがわかります。
この3点の史料から、
- 1284年6月26日
- ハーメルン市で130人の子供たちが一斉に失踪した
という出来事は紛れもなく歴史的事実だった、と言えるでしょう。
・ネズミ退治のエピソードが追加されたのは後世になってから
さて、もうお気づきの方もいるかもしれませんが、上記3点の史料には「ない」エピソードがあります。
そうです。物語の冒頭にあるはずのネズミ退治の話がどこにも描かれていないのです。
実はネズミを退治するエピソードが追加されたのは16世紀に入ってから。それ以前の記録には1284年にハーメルンでネズミが大量発生した記述はありません。
ということはそのエピソードはのちに追加された可能性がありますね。
1565年ごろ書かれたと思われる「チンメルン伯年代記」。じつはこの書物に、はじめてネズミ捕りのエピソードが現れるのです。
この書ではメスキルヒという街で1538年にネズミが大量発生し、とある冒険家によって退治されたこと、1557年にもシュヴァーベンガウで同じような被害があったことが書かれており、その二つの間に「ハーメルンのネズミ捕り男伝説」が記載されています。
それを見ると、ネズミ退治の方法がやや異なるものの、現在よく知られている伝承とほとんど違いはないのです。
この点から、この「チンメルン伯年代記」が、ドイツで16世紀にネズミの害が広がった事実を1284年のハーメルンにも当てはめたこと、それがそのまま伝承として後世まで伝わったことが分かりますね。
つまり現在、我々が「ハーメルンの笛吹き男」として認識しているストーリーは、
- 1284年に起こった実際の出来事(子供たちの集団失踪)
- 後世になって挿入された架空のネズミ捕りのエピソード
この二つが合わさって成立したものだったのです。
・消えた子供たちの行方は諸説ある
1284年6月26日、ハーメルンから子供たちが一斉にいなくなったことは史実でした。
では子供たちはどこへ消えてしまったのでしょうか?
当然多くの人が抱くであろうこの疑問。その真相は事件が起きた当時から不明であり、だからこそ伝承も子供たちの行方を伝えてはいないと考えられます。
この謎については多くの研究者によってさまざまな仮説が提唱され、議論されてきました。今回はその中から特に有力と考えられている4つの説を見ていくことにしましょう。
・少年十字軍に参加した説
子供たちは少年十字軍という活動に参加したのではないかという説。
少年十字軍とは聖地エルサレムをイスラム教徒から取り戻そうという十字軍に触発されて起こった、少年少女が中心となって結成された運動のこと。
ハーメルンで子供たちの失踪が起こるより前の1212年頃、フランスやドイツで盛んになっていました。子供たちが武器や食料も持たず、街を出てはるか異国の地へ向かうという無謀な行動です。
この運動自体は少年たちが奴隷商人にだまされて売られたり、故郷へ引き返すなどして失敗に終わっていますが、この出来事がハーメルンのモチーフになっているというのです。
ただし、この説には異論も多く唱えられており、少年十字軍自体、子供たちだけの集団ではなかったことなどから、子供の失踪と結びつけるのは難しいのではないかともいわれています。
・底なし沼に転落した説
子供たちはポッペンブルク山にある崖から転落して、その下にあった底なし沼で溺れてしまったという説。
失踪事件のあった1284年6月26日は夏至の祭りの日になっており、ハーメルン郊外のポッペンブルク山に火を灯す習慣がありました。
しかしこの山は切り立った崖になっていて、その下には底なし沼があり、動物や人間が飲み込まれてしまうことがあったようです。その様子はマルクト教会のステンドグラスにも描かれていました。
この仮説では、祭りの熱気に浮かれた子供たちは、山で足を滑らせ崖から転落、底なし沼にはまって死んでしまったとしています。
中世の祭りはかなり熱狂的であり、それに影響された子供たちが集団で何か行動を起こすことは不自然ではありません。
『ハーメルンの笛吹き男』を著した阿部謹也氏も有力な説として、この説を取り上げています。
・舞踏病という病気だった説
子供たちはハンチントン病に集団感染したという説。
ハンチントン病は自分の意志とは関係なく、四肢や身体が動いてしまう病気で、その様子から別名舞踏病とも言われています。
実際に1237年、ハーメルン近くのエルフルト市で子供たちが舞踏病にかかったこと、14キロもの距離を歩き、疲労で倒れてしまったことが記録として残されています。
ハンチントン病は遺伝性の病気で、大人がかかりやすいという傾向はあるようですが、興味深い仮説と言えそうですね。
また、流行性の病気にかかった子供を、どこか特別な場所に隔離したことが伝承のもとになっているのではないかと考える人もいるようです。
・東方植民のために自ら村を去った説
子供たちは自らの意思で植民活動のため、東方に向かったとされる説。この説は20世紀になってから出された新しい説ですが、現在では最も有力な説となっています。
この説によると、当時のドイツは人口の増加と土地不足が深刻であり、ハーメルンでも移民の必要性があったとしています。
飢饉や食糧不足がたびたび起こる中、東ドイツやポーランドなどには人々に与えられる土地がありました。
そこで教会や領主・貴族・王などが東方への移住を促進していたということは事実です。笛吹き男はそうした王や貴族、修道院の命令で宣伝活動を行っていたのかもしれません。
この説では失踪したのは子どもではなく青年期の男女だったとしています。それは、町の住民全てが「~の子供達」と呼ばれていたのではないかという考えに基づいています。
この説が有力とされているのは、現在のポーランドなどにハーメルンと非常によく似た地名が確認できる点。もしかしたらそれらはハーメルンの子供たちが建設した街だという証明なのかもしれませんね。
ここまで有力な説を4つ見てきましたが、現在のところ決定的といえる説は出てきていません。その点がなんともミステリアスですね。
・おわりに
以上「ハーメルンの笛吹き男」について、実話だった証拠とその物語の成立、子供たちの行方を見てきましたが、いかがでしたか?
ハーメルン市には現在でも音楽演奏を禁止されている「舞楽禁制通り」があり、婚礼のパレードでも、その一帯だけは演奏を止めて通過しなければなりません。
この通りは、1427年にはすでに存在していたことが明らかになっています。笛の音に誘い出された子供たちが実際に走り抜けていった道なのでしょうか?
ハーメルンの伝承は今もなお、私たちに何かを訴えかけているような気がしてなりません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
・参考資料
『ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也著 ちくま文庫
『その話、諸説あります。』日経ナショナル ジオグラフィック社
Wikipedia 「ハーメルンの笛吹き男」