~ 彼が「阿片」の煙の先に見たのは
「希望」か、それとも「地獄」か ~
「満州の『阿片王』」と呼ばれた男
秋田県 里見甫(さとみ はじめ)

ライナス
戦後は様々な経済事件に
名前が取りざたされるも
当人は逼塞の道を選ぶことに。
その一方で晩年は宗教にのめり込む
二面性的な生活を送ることに…。
こうして前述のとおり、里見は戦前、戦中の自身の阿片工作やその他の関東軍及び日本軍の特務工作において一切の罪に問われることなく、
戦後を過ごすこととなりました。しかし、戦後の日本において里見がその力量を発揮する場所はどこにもありませんでした。
里見が阿片によって稼いだ利益は当時の時価総額にして30兆円に上るとされていますが、本人はその莫大な資金をその懐に入れる事は殆ど無く、その資金の殆ど全てを満州や南京政府、及び当時の中国人のために惜しみなく蕩尽し、自身はほぼほぼ素寒貧の状態だったと言われています。尤もそのような里見の行動こそが関東軍や帝国陸軍の絶大な信用と信頼を掴む大きな要因であったと言えます。
戦後里見は東京都渋谷区の渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬系企業の日本商事とは無関係)を構え、代表に就任します。
しかし、自らが表立って活動、行動することはなく、かつて満州で昼夜を共にした仲間たちの居場所を根無し草のように移動しつつ、その世話や面倒になる生活を送っていたと言われています。
何故、里見がこのような生活を送っていたかについては諸説あるようですが、筆者の見解としてはそれが里見の精いっぱいの
「戦後と『戦後日本』の拒否」
だったと言えるのではないでしょうか。満州で国務院総務部長を務めた岸信介の手によって戦後の日本の復興の様相があたかも
「阿片なき『満州国』」
の様相を呈してきたことを身にしみて感じるようになったからでもあったこと[注4]が、そのような里見の行動の所以だったのでしょう。
また、自身が当時軍の要請で敵対視していた社会主義国、共産主義国が(少なくともこの当時においては)隆盛していたことも里見自身が、
「自分が対峙してきた思想への敗北」
と捉えたのではないかと筆者は感じています。
こうして里見は事実上逼塞の身で戦後の日本を生きることとなったのですが、その内情は決して赤貧の身というわけではなく、先述したように児玉誉士夫や笹川良一、許斐氏利、阪田誠盛などの所謂
「戦後右翼」
と呼ばれた日本の戦後における「闇人脈」の支援を陰に日向に受けており、根無し草のような表向きな生活とは裏腹に意外と瀟洒な生活を送っていました。そのせいもあってか、三無事件や戦後三大事件(下山、三鷹、松川事件のこと)の「黒幕」の一人に名前が挙がるなどしましたが、里見本人は一切の沈黙を貫きました。
その一方で熊本祖神道会の熱心な信者となり、暇さえあればわざわざ熊本まで赴くなどして礼拝を受けたりするなど、戦前戦中の里見とはまた違う顔を見せていました。この里見の熱心な宗教への傾倒に関しては
首をかしげる研究者も多いのですが、筆者としてはこの里見の宗教への傾倒は恐らく阿片に変わる信仰の種を探し求め、たまたまそれが祖神道であったのではないか、と筆者は考えます。

長男の泰啓氏を抱え笑みを浮かべる最晩年の里見。
好々爺然とした笑みの中に一抹の狂気のような
眼差しを感じるのは里見という男がどのような人生を送ってきたのかを
まざまざと実感させる一枚となっている。
[注4] ここまで記事を見てきた人はお分かりのように、戦後の高度経済成長期の国土開発計画の多くは満州国で実行されてきたことを下敷きにして行われてきたものであり、その開発に携わる人物、指導する人物もかつて満州国でその辣腕をふるっていた者たちでした。中には児玉誉士夫のように、戦前戦中に獲得した莫大な資産をGHQに献納し、政財界を裏から操る「フィクサー」と呼ばれることになった人物も数多く存在しました。
死後と荼毘に付されて判明した真実と
死してなお蠢く里見の意志…。
「時代」が生んだ「怪物」は
先祖の因縁の地で眠りにつく…。
こうして事実上の「逼塞」と言える生活を送っていた里見でしたが、その「死」はあまりに突然に訪れました。1965年3月21日、熊本租神道にいつものように参拝に訪れて、2日後に自宅で家族と歓談中に里見は突如心臓麻痺に襲われ、そのまま意識が戻ることなく不帰の客となったのでした。享年70歳でした。
通夜、葬儀は当初は里見の評判を鑑みて密葬で行う予定だったそうですが、岸信介、佐藤栄作兄弟等の政治家や笹川良一、児玉誉士夫等の「満州の『裏人脈』」の面々が資金を出し合い、豪奢な通夜、葬儀が三日三晩行われることとなりました。
里見の遺体が荼毘に付されたときに残った頭蓋骨が淡いピンク色となっていたことに、火葬の管理者が気付いたそうです。それはほかでもない、阿片の常習者に現れるまたとない証拠でした。そうです。
他でもない里見自身が、誰よりも「阿片」の
魅力に取りつかれ、誰よりも「阿片」を
愛し、浴していた、ということです。
葬儀には里見の先妻であった相馬ウメも参加したそうですが、彼女は里見が火葬で出棺されるとき、棺の蓋を閉めるための釘打ちの石を里見の顔面目掛けて投げつけ、呪詛の言葉を発して暴れて、その場で取り押さえられたそうです。実は里見の女性関係というのは非常に乱脈としていて、先述した長男の泰啓氏の母は後妻で、里見が当時交際中だった後妻と所謂「出来ちゃった婚」をしたために強引に先妻を離婚させて籍を抜くという行為を行っていたのでした。
このようなことだけではなく、里見には梅村淳という川島芳子のような「男装の麗人」を秘書として抱えていたとされ、改めて里見という男は「時代の『狂気』」をそのままに受け止めて生きていたことが図らずも明らかになったのでした。
現在里見は千葉県市川市国府台の里見公園に隣接する總寧寺に眠っています。この土地は皮肉にも先祖の安房里見氏が関東の覇権をめぐって
後北条氏と干戈を交えた(国府台合戦)土地でした。そこに里見が眠るということ自体が、里見甫という男が歴史という恐ろしい「磁力」に引き寄せられているというほかありません。
因みに里見の墓に印された墓碑銘「里見家之墓」は、里見とは対照的に総理大臣まで上り詰めた岸信介の揮毫です。
里見甫の墓


里見の墓に書かれた碑文。
風雨による摩滅で文字の全体が読めなくなっているが、
そこに死してなおも秘密を明かすまいとする
里見の強烈な意思を思わず感じざるを得ない。

里見の墓の撰文。そこには
「凡俗に堕ちて 凡俗を超え
名利を追って 名利を絶つ
流れに従って 波を揚げ
其の逝く処を知らず」という
里見の一生とその死後の評価や評判を
暗示するような撰文が刻まれている。
まとめと本稿の構成について
今回は里見甫について記事を書きました。筆者はここで記事を書き始めてから常に、
「里見甫」を記事にしたい。
と思っていました。理由としてはこれまでの紹介してきた東北人とは違って、あらゆるパーソルが違う人物で、
「魅惑的な『悪党』の『非国家主義者』」
という妖しい蠱惑的な妖気を纏った里見に、筆者自身が知らず知らずのうちに引き寄せられてしまっていた、というのが正直なところです。
しかし、里見甫という男は秘密工作者や特務機関員に共通する
「自分が知り得た事は全て
墓場の中まで持っていく。」
という事をしっかりと体現した人物で、数少ない資料や幾つかの作家や評論家による書籍をかいつまんでも、なかなかその実態については踏み込めないことが多く、黄泉の中で呵々大笑していることであろう里見の姿を頭の中に想像してはキーボードの上で頭を抱えることもありました。
里見の妖しい「磁力」に引き寄せられることも多くあり、それを堪えるのにも多大なエネルギーを使いながら、最低限心がけたことは
「礼賛も断罪もせずに、
『里見甫』という男の
生涯を記事にする。」
という事でした。正直な感想を言えば、筆者があの時代に生まれていたら、里見甫という男が描き出す画に抗し切れるか、という自信がなく、寧ろ里見に協力していたかもしれない、という疑念もあり、その複雑な筆者の感情と里見の陰陽相照らす光に目を背けることなく、第三者的な視点と目線で里見甫という男について記事にすることが出来た、と
このまとめを書いている筆者は思っています。長文、駄文になってしまった部分はありますが、筆者自身のチャレンジ的な部分が多くを占めた今作を書き終えて、正直ほっとしています。
今作のように、時には里見のような「ダークヒーロー」についても、
記事を書いていこうと思っております。
それではまたお会いいたしましょう!ライナスでした!
