月明かりの無いあの頃の夜はどれほど心細いものだっただろう。
振り返ることすら避けたい日常の記憶は皮肉にも私の生存欲求を強め、現状の生活の土台を形作っている。
そして自我の形成の為に造り上げた物語の数々は様々な人々の未来の礎となり愛されるようになった。
私が灯した希望は今尚可能性の源として未知の原野を行く皆の行き先を照らしているのだ。
長年過ごしたこの居城からも旅立つ時なのかもしれない。
これからは私自身の望む物語を紡ぐことが許されているのだから。
私はこれまでの優しい記憶をアルバムにそっと閉じ込めると鍵をかけて本棚に収める。
荷物はなるべく軽いほうがいい。
あまりにも充実しすぎた過去の英雄譚も後に残した者たちへ託すことにする。
そして名残惜しい別れの儀式を終えた後、私は新たに仕立てたコートとお気に入りの詩集だけをもって城を跡にした。
かつて自分の全てであった愛しい現実の数々のお見送りを受けて。
「…それでマダムの残した遺産と禁制書庫の管理権を争って大騒ぎだったわけよね。それで?私がこれからやるべきことは何なのかしら?」
ミステルは手渡された書類の数々に目を通した後、あまりに膨大な関係者の数に頭を痛めている。
私も欧州の上級魔導管理官として様々な禁術や封印指定の権利問題に携わってきたが、今回の件はかなり難題が積みあがっていて手に負えない状況だ。
現代の魔導協会としても歴史的な遺産や魔導器をこれだけの規模で扱うことになるのは初めてのことになる筈だ。
マダム・サマーフィールド…欧州における近代魔導社会の礎となるシステムや人事ネットワークを築いた功労者であり、現代の魔導協会の執行役員は一人の例外もなく彼女の指導を受け実務経験を積んでいるのだ。
そしてその生まれは中世の貴族令嬢であり産業革命が起こった頃らしい。
まるでおとぎ話のような話だが彼女の経歴や実務経験を俯瞰すると疑問が出ないのも不気味なところだ。
実際には検証できない不老不死の実態も誰も触れることができない禁忌であり踏み込む者はいない。
それでも皆の精神的支柱として偉大なその背中を誰もが尊敬し、畏怖していたのである。
そんな絶対的象徴であったマダムが突如失踪…あらゆる権利者や権力者、現場の責任者はシステムの実用性の担保となる存在を失ったことで騒然となった。
封印指定の魔導の私的利用による日常的危機や人的ネットワークの汚職問題が一気に噴出したのだ。
私のところにも様々な権利関係のトラブルの波が押し寄せてここ最近の睡眠時間が急激に削られていて困ったものである。
そして今日は実際の震源地であるマダムの工房に収められた禁術や魔導具の権利整理でてんてこ舞いだ。
ようやく一息ついてのティータイムなのである。
この地域の協会員の男はミステルの瞳をじっと見据えた後、手に持っていた小さなアルバムのようなモノをミステルに手渡した。
鍵付きの古びたアルバムのようなそれはなぜか懐かしい装丁で感情が揺らされる。
しかしこれはなんだ…?
ミステルが戸惑う様子で協会員の男に説明を促そうとした瞬間、アルバムのようなモノから眩い光が溢れだした。
突如この室内を染め上げた閃光はミステルの意識を異界へと導く。
偉大なる使命の相続の儀式が始まった合図であった。
